「主観性」@トローゴットと「主体性」@ラネカーのちがい


おなじ "subjectivity" というタームを使っているのでこんがらがっちゃいますが,トローゴットとラネカーでは定義がちょっとちがいます.上記の訳文でラネカーも少しふれていますように,トローゴットの場合,ある構成素が (a) 話し手の主観的な態度を (b) 明示的に表すのを「主観的」といいます.それに対して,ラネカーは (a) 客体的な事象に対する話し手の捉え方が (b) 非明示的なものとなっていることを「主体的」と呼んでいます.


 このちがいを de Smet & Verstraete は次のように整理しています:



この整理は何かと便利かもしれません.

 また,両者の違いについて,ラネカーは1998年の論文でこうコメントしています:

My position is compatible with Traugott's because her comment pertains to "the early stages of grammaticalization", whereas I have been more interested in the later stages, where objective elements are progressively stripped away, to the point where little if anything is left behind onstage."

(Langacker, Ronald, 1998, "On subjectification and grammaticization," in Jean-Pierre Koenig (ed.) Discourse and Cognition: Bridging the Gap, CSLI Publishers: p.87)