虫干し:ラネカー翻訳の断片を少々


フォルダを整理していたら断片的な訳文がでてきたので,こっちに転載しておきます:

まず,Foundations of Cognitive Grammar, vol.2 から:

だから,ゼロ形式と遠隔形の法助動詞はそれぞれ当該のプロセスを直近非現実と非直近非現実におくわけだ.〔といっても〕これらの用語は字面だけ見てもよくわからないから,意図されている趣旨をはっきりさせておこう.この用語で示唆されているのは,認識的な遠近にもとづいて非現実がきっちり2つの区画に一貫して絶対的に分かれるということだ,などと受け取らないでほしい;たとえば,遠隔形の should はゼロ形式の may よりも高い蓋然性(より少ない認識上の遠さ)を伝える〔──ということからわかるように,遠隔形の方がゼロより認識的に近い場合もある〕.非直近性として人が頭に浮かべることは,かならず個々の法助動詞それぞれに含意される距離に則して理解しないといけない.もっと厳密に言うと,遠隔の述定で示されるのは,法助動詞の認識的な遠近は直近現実からじかに算定されるのではなくて そこから離れた地点から算定される,ということなんだ.たとえば,Jeff will finish on time が伝えるのが「ジェフが時間どおりに終えることは現在の現実にもとづいて自信をもって予測可能だ」ということだとしたら,Jeff would finish on time は それと同等の推定をある仮定の状況(e.g. …if he had more help〔もっと手助けがあったら〕)を考慮にいれて行うわけだ.こういう線で分析してみれば,must に遠隔形がないことに機能の面から説明がつく:must は〔法助動詞の〕体系で特別な位置を占めていて,法助動詞として可能なかぎり最小限度の認識的な遠さ〔=ただの現在形に限りなく近いほどの隔たり〕を表す.原理上は過去形だってありうるけれど,認識上の遠さを増してしまえばその存在理由〔レゾン・デートル〕に反することになるような語義があるんだ.


いくつか短い論点を述べて,この分析の端緒を締めくくろう.第一に,定形節内にそれとわかる要素がない場合(e.g. They like her)にも基盤化述定はあると仮定される.だから,基盤化要素のなかには音韻的にゼロのもの(i.e. [ […] ―> […] ])があって,これは際立たされたプロセスを直近現実におく.第二に,伝統的に「主語と動詞の一致」として知られていることは,基盤化述定の一部だと分析される.He likes her みたいな文は –s により基盤化されていて,これは当該のプロセスを直近現実におくだけでなく,そのプロセスのトラジェクターが非-複数で三人称(i.e.その言語行為の参与者たちとは別のもの)だと特定もする.最後に,これは必ず理解されないといけないことなのだけれど,基盤化された節の主要部は 概念的な組織〔=いろんな概念が組み合わさってできるもの≒文の概念的な意味内容〕のある特定の水準を表示していて,しかも その内容は より高位の水準で覆されることもある.確言としてとりだしてみれば,たしかに He likes her は際立たされた状況を話し手が直近現実の一部として受け入れていることを含意する(11.4.1).ところが,Perhaps he likes her とか It is doubtful that he likes her とか The nurse believes that he likes her みたいにもっと大きな表現のなかに入ると,状況が直近現実におかれているというこの把握は,その妥当性を査定したり特定のメンタルスペース内だけにとどめるもっと大きな把握のなかに埋め込まれる.


概論的に分析のあらましを述べ終わったところで,時制‐モダリティ要素に固有のいろんな特性がどのようにしてその意味と意味論的機能から直接の帰結としてでてくるかを考えておこう.そういう特性の一つ目は,時制は唯一の義務的な助動詞要素であるらしいという点だ.これはいまならもっと正確にこう言い直せる.基盤化は定形節の定義の一部であって,だからそういう節にはどれも基盤化述定が含まれる.基本的な選択肢──それぞれ特有の意味がある──は,法助動詞の有無と遠隔述定の有無だ.この点で,時制(i.e. 近接/遠隔の対立)と法助動詞は同等のものだ.たいてい時制が唯一の義務的要素とみなされているのはなぜかというと,誤ってゼロ形式をたんに時制の標識とばかりみなしてそのモダリティの機能を無視しているからでしかない.


(FCG2: 246-7)


これは大昔に輪読したとき,「けっして難しい英文じゃないよ」ということを示すためにつくったものです.必要以上に口語的にしてます.


次に,Langacker (1998) から:

ある関係を理解するとき,その関係には参与項があるということが前提になる.そして項のあいだには焦点として際立つ程度にさまざまなちがいがある.主要な焦点となっている参与項を【トラジェクター (tr) 】という.二次的な焦点となっている項があれば,【ランドマーク (lm) 】とよぶ.名詞句は,ある関係の表現にとってのトラジェクター/ランドマークを特定しているときに,その表現の文法的主語/目的語を構成する.


【基盤 (ground; G) 】は,[a] 発語の出来事,[b] その参与者,[c] その直近の周辺環境から成り立っている.そうすると,その主たる要素は話し手と聞き手ということになる.この両者はそれぞれに言語表現の意味にとって概念主体すなわち理解の主体として機能する.このことを図示するのが Fig.2 のタテ向き矢印だ.名詞句や定動詞節には【基盤化 (grounding)】がくみこまれている.これが,プロファイルされたモノやプロセスがどのように基盤に関係しているのかを文法によって特定するわけだ.英語の名詞にかんして基盤化の要素をあげれば,指示語・冠詞・ある種の量化子がある.節に関わる基盤化要素には,時制と法助動詞がある.こうした要素の決め手となる特性──その特殊な文法上のふるまい(Langacker 1985 ; 1990)を説明するもの──は何かというと,それは,基盤につながった項目をプロファイルするということであって,基盤や基盤化関係をプロファイルするということではない.こうして,Fig.2 にみえるように,基盤につながっている動詞 admired は,その動詞語幹 admire とプロファイルこそ同じなのだけが,その基盤と基盤化関係はともにオフステージにあり,主体相対的にとらえられている(そのなかにあって概念主体たちはプロファイルされたプロセスを時間のうえで「振り返っている」わけだ).
(p.73)

3. 主体化


かつて私は,【主体化】を特徴づけるものを,客体軸から主体軸へと関係を再配置する点にみた.つまり,ある関係の構成要素である《図‐3》の Yは,それと類推的な関係 (analogous r.) Y' に置き換えられている.もともとのYは,客体としてとらえられたオンステージ要素どうしの間になりたつ関係であり,Y' はオンステージの状況とグラウンドのある側面とのあいだに成り立つ関係だ. Y’ と G はオフステージで主体的にとらえられているので,Y が主体化をこうむったのだというわけだ.このことじたいが,トラジェクターやランドマークといった参与者の地位に影響を与えることはない.が,しかし,もともとの客体的な関係のどの側面がオンステージでプロファイルにとどまるのかには影響する.


たとえば,(1) に示されている across の 2とおりの語義は主体化によって関連づけられている.


(1)
a. A giant chicken strode angrily across the street.〔でっかいニワタリがけたたましく通りをまたいで行った〕
b. There was a KFC outlet right across the street.〔KFCの店舗が,通りのちょうど反対側にあった.〕


これをもらうと,(1)-a では across のトラジェクター(ニワトリ)は空間のなかをとおりぬけて,ある経路にそって次々に各地点に位置しつつそのランドマーク(通り)をわたっている.一方 (1)-b では,ランドマークからみてある1地点に位置しているだけだ.その位置は,ちょうど例 (1)-a の経路の終点にあたる.ところが,ここにも移動の意味=感覚はあるのだ.トラジェクターは静止しているとはいえ,そのことの概念をつくるひとは,心的経路 ── (1)-a の物理的経路に類似している──をなぞっていって,ついにトラジェクターの位置を特定する.ランドマークとの位置関係でどこにあるのかを,ある参照点 (reference point; R) をもとに推測するのだ.


ようするに,オンステージの主体の客体的動きにとってかわって,オフステージの概念主体(基盤の一角をなす)における主観的な動きがあらわれている.この変化を Fig.4 に図示してある.


実線の矢印は空間的な動きを示し,破線の矢印はこれから類推した心的走査 (mental scanning) をあらわしている.このようにとらえ方を変えても,どれがトラジェクターでどれがランドマークかという(オンステージの焦点参与項の)選択は左右されないけれども,ただ,プロファイルされた関係にあってそのトラジェクターにどんな役割があるかについては影響を与える.つまり,〔トラジェクターは〕空間的経路にそって次々と各地点をとおっていくかわりに,ただひとつの地点を占めている.とはいえ,プロファイルされた関係がトラジェクターの位置を特定することにかわりないのだが.


以上の文もふくめて意味変化・文法化の諸事例には主体化があらわれている点に疑いはないと思われる.ここでは問題なのは,どうやってその〔文法化の現象に〕固有な特徴を記述するか,ということだけだ.Verhagen (1995) をはじめ,さまざまな論者が次の点を提案している:

  • 主体相対的な〔意味的〕構成素 (component) Y' がいたるところにあらわれていること.
  • それは〔もともとの〕Y に内在しているということ.
  • その帰結として,〔かつての自説とちがって〕主体化とは客体軸から主体軸への再編なのではなく,たんに Y の客体的な一面が脱落したあとに主体的な下地が残されるというだけだということ.


つまり,せんじつめると主体化とは一種の意味論的「漂白化」(bleaching) である,ということになろう.


以上の示唆は的確だと思われる.たとえば,Fig.4 で,客観的な経路を主語〔の指示対象〕がたどって行くのをとらえた認識主体は,主語の動きを追っていくこととある側面で同様の経路を,心的に走査することになる.したがって〔下図のようになる〕


これ〔心的に走査された経路/心的走査そのもの〕は,across の派生的意味の概念化に付け足されているのではない.そうではなく,それ単体で完結しているために,客体的な動きの方が剥落してしまったら結果としてもっと目立つようになったわけだ.


ここにいたって,【主体化】について改訂版の特徴づけを与えることができる:客体的関係が消え去ったあと,その関係に内在していた(i.e.その関係の概念化にふくまれていた)主体的関係が残る,これである.Fig.6 が図解しているように,Y' は Y と置き換わるのではなく,客体軸となっていた Y が消えたあとに顕著になっている.
(pp.(pp.73-76)

真性の時制標識──すなわち前出の基盤化要素のこと──ともなると,よりいっそう極限的な事例にちかくなる.〔真性の時制標識と比べると〕英語の be going to は,be が「本動詞」なだけに,なお迂言的ではある.というのは,be のプロファイルする作用/過程(未来性の関係が時間をつうじて持続すること)を時制・モダリティが基盤化している,という意味においてだ.〔そこから敷衍して考えると,〕もっともありそうなこととして,〔be going to は〕文法化をさらにすすめていき,しだいに真性の時制標識に転じて基盤化の機能をはたすようになるだろうと思われる.これがおこるとすれば,それはこういう場合だ:[a] 時間の参照点Rが〔基盤=発話時の〕Gに義務的に同等とされる,[b] オフステージで主体相対的に捉えられる,[c] 結果としてその係留する時間的な経路もまた主体相対的に捉えられる.定義により,プロファイルするときには客体的な捉え方が要請される.だから,およそオンステージに残ってプロファイルされている作用/過程は,その時間的な位置づけが特定されることになる.〔be going to がさらに文法化をとげた〕新しい時制標識が結合する動詞もしくは節,これがプロファイルする特定の作用/過程が,スキーマ的作用/過程(もとはといえばプロファイルされた時間関係にとってのランドマークだが)と同一化する.この基盤化要素の内容は,具体化構造の方にすっかり組み込まれてしまって,オンステージにはなにも残らない〔つまり希薄化する〕(cf. Figure 2).


いま述べた筋書きにはいっさい隠喩〔にもとづく説明〕はふくまれていないことを確認されたい.とくに,(5b)-(5e) のような文にかんして,空間とのアナロジーによって主語が隠喩的に時間のなかをとおっている,というような主張はしていない.たんに,概念主体が時間的経路をなぞっていると言われているのであって,その概念主体は隠喩的な把握の対象としてオンステージにいたりはしないのだ.とはいえ,例文 (5a) から (5b) への推移のような〔主体化/希薄化の〕初期段階で隠喩が作用している可能性は退けないでおきたい.つまり,(5a) のような文に際して,【A】ある目的〔郵便の投函〕を実現するための進捗というターゲット領域を理解するために【B】目的地への空間的移動というソース領域が喚起された,ということもありえよう(cf. He’s well on his way to deciding whether to resign.).こうした隠喩が薄れるにつれて(空間的移動の観念が失われるにつれて),be going to 構文は (5b) のように未来の意図を指し示す手段にまで希薄になるだろう.げんに隠喩にそうした役割があるのだとしてもなお,隠喩的拡張によって未来の意図が (5a) のような文に付加されるのではない.それははじめからそこにあるのだ.
(p.82)


当該の論文:

Ronald Langacker (1998) “On Subjectification and Grammaticization.”In Jean-Pierre Koenig (ed.) Discourse and Cognition : Bridging the Gap, pp.71-89 CSLI Pub.

  • 1 Introduction
  • 2 Basic Notions of Cognitive Grammar
  • 3 Subjectification
  • 4 Going To > Gonna
  • 5 English Modals
  • 6 Conclusion


認知文法を提唱して以降のラネカーの翻訳はごくわずかしか出版されていませんね.それも論文のみで,単著はまだ訳されていません.今後,出版されるのであれば,平明な訳になってくれたらいいなと思います.