主観,客観,キャットフード:評価文脈/評価主体への相対化
このところ自分が関心をもって考えている話題について,少しまとめのメモを書いてみようと思います.(と言いつつ,あまりまとまりませんが)
主観読みと客観読み
昨日やっと訳読を終えたジャッケンドフの議論では,心理述語・評価述語がもつ主観読みと客観読みを論じていました.
ごく大まかに言いますと,たとえば「X はおいしい」という述語には「話し手や特定の誰かにとっておいしい」という主観的な読みと,「人を選ばず誰しもにとって一般的においしい」という客観的な読みができます.
- a. この野菜ジュースはぼくにとってはおいしい.(けど,どうやら田中さんは気に入らないようだ.)
- b. この野菜ジュースはおいしい.(だから,田中さんも気に入るだろう.)
このとき,「主観的」であるとは一定の評価主体に真偽が相対化されていることに同じです.
なお,「主観的」というタームについては次の2つを区別しておくと無用な混乱をさけられるでしょう:
- 主観的A:話し手に相対的な/話し手の内面・態度を表す.
- 主観的B:特定の個体に相対的な/特定の個体の内面・態度を表す.
じっさい,ばくぜんと主観/客観だけで分けるのでは十全な記述にならないケースがみつかります.
相対的な意味論
Kai von Fintel がブログ Semantics etc. でこんな面白い観察を書いています:
A: How’s that new brand of cat food you bought?
B: I think it tastes good, because the cat has eaten a lot of it.
A: 君が買ってたあの新ブランドのキャットフードはどんな感じ?
B: おいしいと思うよ.ウチの猫はたくさん食べてくれたから.
「おいしいと思うよ」といっても,当然ながら話し手本人にとって「おいしい」わけではありません.したがって,この場合は(主節の think の主語が I であるにも関わらず),taste good という述語は特定の the cat または総称的にネコ一般に相対化されていることになります.*1
おそらく,「キャットフード」が主語となることにより,taste good の評価主体がデフォルトでネコになるのでしょう.しかるべき文脈では,このデフォルトは破棄されて別の評価主体にもなるはずです.ここでは日本語で観察しておきましょう:
- 「ちょっとかじってみたけど,意外とキャットフードっておいしいねぇ.」
- 「ちょっとかじってみたけど,やっぱりキャットフードっておいしくないねぇ.」
こういう文脈であれば,「おいしい」の評価主体は人間である話し手でもなりえるのがわかります.(じつのところ,こうした相対化の意味論はこの数年にぎやかに論じられています.)
さらに Egan, Hawthorne, and Weatherson (2004)*2 でも次のような例文があげられています.それぞれ,最初の発話は相対的な述語で確言しており,2つ目の発話ではそれを別人が報告しています:
- Vinny the Vulture: Rotting flesh tastes great.(ハゲワシのヴィニー:腐肉はめちゃ美味い)
- John: Vinny thinks that rotting flesh tastes great. (ジョン:ハゲワシのヴィニーは腐肉はめちゃ美味いと思っている)
- Marvin the Martian: These are the same colour (said of two colour swatches that look alike to Martians but not to humans).(火星人マーヴィン:この2つはおんなじ色だ(火星人には同じに見えるが人間には異なって見える2つの色見本について)
- Brian: Marvin thinks that these are the same colour. (ブライアン:マーヴィンはこの2つは同じ色だと思っている)
いずれの例でも,taste great, be huge, be the same colour といった述語が特定の評価主体に相対化されています.このとき,述語が特定の評価文脈*3 に相対化されている,と言います.この評価文脈は別人による信念報告でも保持されているのがわかります.
とくに面白いのはマグシー・ボーグスの例で,NBAプレイヤーという基準では明らかに小さいにも関わらず,評価主体であるアリ君Zの視座から「巨漢」(huge) と記述するのが適切と解釈されています.(通常,相対的な形容詞はそれが修飾する名詞に固有の尺度で解釈されます:e.g.「大きなネズミ」は「小さな象」よりも小さい,といった具合です.)
認識様相の評価主体への相対化
評価文脈または評価主体*4 への相対化という切り口は,taste good のような述語とパラレルなかたちで認識様相についても有効ではないかということで,先ほど名前をあげた Tamina Stephenson らが研究成果を次々に公表しています.
たとえば法助動詞 might の認識様相は主節では基本的に話し手の知識に相対化された可能性の査定を表しますが,以前ここでも少し記したように,理由節では主節の動作主・経験者をその評価主体として解釈されます:
The Trojans were hesitant in attacking
because Achilles might have been with the Greek army. (トロイ軍は攻撃を躊躇していた.アキレスがギリシャ軍にいるかもしれなかったからだ.)(Egan, Hawthorne and Weatherson 2004: 159)
上記の例で might が表しているのは the Trojans からみた認識的可能性であって話し手のそれではありません.
こうした事実が示唆するのは,動機タイプの理由節を解釈するとき,私たちはその動作主や経験者の視点による実践的推論を行っているらしいということです.じっさい,他者の行為の「理由」を理解することはその他者の視点をとることに他なりません.ジャッケンドフも心理/評価述語と心の理論との関連を指摘していましたが,認識様相や動機タイプ理由節の理解でも心の理論がカギになると考えられそうです*5.
さて,この解釈は「主観的」でしょうか.冒頭にあげた「主観的A」には該当しません:話し手の知識に相対化されているのではないからです.この場合は,「主観的B」に該当します.
しかし,そのような分類をするくらいなら,「評価主体 x の知識に照らして」という具合に評価主体の変項を仮定しておいて,個別の文脈でその変項にしかるべき個体/グループを代入するという方式にした方が話が早そうです.いわゆる客観的な認識様相ではこの変項が普遍量化されて「あらゆる評価主体の知識に照らして」となっているとみなせます.また,話し手がその変項に代入されているケースをとくに「主観的」と呼ぶことにすればよいでしょう.
まさにそうした分析を Anna Papafragou が提案しています(この文献については本ブログでも以前に言及しました).彼女の論文では,Kratzer の定式化を修正して,任意の集団 G に認識様相の真理値を相対化するという定式化を行っています.集団 G のメンバーが話し手ひとりとなっているケースがいわゆる主観的な認識様相に該当するというわけです.
もちろん,従来の主観/客観という大きな二分法が無効だというわけではありません.ですが,上記の例からうかがわれるように,それだけで話がすむというわけでもないでしょう.様相こと「モダリティ」の研究では伝統的にこの二分法ですませるか,はじめから話し手の態度=「主観的A」をモダリティの必要条件に含める研究も多く*6,上記のようなアプローチが手薄となっていたきらいがあります.
──やっぱりまとまりませんでしたが,とりあえずこのあたりをグチャグチャ考えてます.
*1:この例文は後に彼の学生である Tamina Stephenson の論文に引用されています:文献情報/PDF
*2:Egan, Hawthorne and Weatherson 2004. “Epistemic modals in context.” In G. Preyer and G. Peter (eds.) Contextualism in Philosophy. Oxford: Oxford University Press. 131-168.
*3:context of evaluation
*4:"assessor"
*5:そういえば,様相の意味論-語用論インターフェイスで博士論文を書いた Anna Papafragou は心の理論に注目した研究をしているようです