補足:一度も実際に起きていなくても現在時制をいわゆる「習慣」的に解釈できる
今日訳した範囲で,コムリー先生は現在時制の「習慣」解釈について,
と述べています.
しかし,一度もその出来事が実際に生起したことがなくてもかまわないケースが Langacker (1997: 198)*1 で指摘されています:
(a) The door opens inside.
(このドアは内向きに開く)
(b) Zelda drinks her whisky straight, but in actuality she never touches the stuff. (p.203)
(ゼルダはウイスキーをストレートで飲む.でも,実際にはまったくウイスキーにさわることがない)
ラネカーによれば,この文 (a) には「ドアは内向きに開くよう設計・しつらえがなされている」という含みがあり,設置したものの実際には一度も開かれたことがない場合にもこのように発話しておかしくないそうです.訳につけた日本語の文も,ぼくの直観では問題なくそのように使えます.
ここで重要なのは,そうした出来事のタイプが一般に成立するということと,それを支える/それを導くための根拠とを混同しないことです.
上の例文の解釈からわかるように,現在時制のいわゆる「習慣」的意味――ラネカーのいう「一般的妥当性言明*2」――は,必ずしも一般化(帰納)の根拠となる実際の出来事インスタンスを必要としません.
It is also essential that one distinguishes between the conception of habituality per se and the kind of evidence a person would need in order to arrive at that conception. In the case of drinking whisky straight, someone other than Zelda herself would presumably need to see her actually drink it that way before entertaining the notion that this practice represents part of what characterizes her as an individual. With other examples, however, a zero-instance interpretation seems quite unproblematic even from the evidentiary standpoint.
また,習慣性の概念化そのものと,その概念化に到達するのに必要とされる証拠とを区別することが欠かせない.ウイスキーをストレートで飲む事例〔Zelda drinks her whisky straight〕では,おそらくゼルダ以外の誰かが,彼女が実際にそうやって飲むのを見たことがないと,この行動が彼女らしさの一部を代表しているという観念をいだくにいたらない.だが,他の事例では,こうした証拠の観点から見てインスタンス皆無の解釈もまったくおかしくないように思われる.
(Langacker 1997: 198)