スティーブン・ピンカー「言語戦争のニセ戦線」(part 2/3)


Part 1 からの続きです.

たしかに辞書は言語の慣習が変化するのを押しとどめる力をもってはいないけれど,だからって,二分法屋たちが恐れるようにその時代に有効な慣習を規定できないってことにはならない.だからこそ,『アメリカン・ヘリティッジ』は用法審議会(ぼくは座長をやってる)をつくっている.これは,言葉を注意深く選んでいることをその著作が示している200名の著作家・ジャーナリスト・編集者・学者その他の公的人物からなるパネルだ.毎年,彼らは発音・意味・語法に関するアンケートに回答する.同辞書はその結果を問題含みの単語の項目に「用法ノート」として報告している.これには,抽選で選ばれた単語の何十年にもわたる変化も含まれる.用法審議会は注意深い書き手たちの仮想のコミュニティを代表するよう意図されている.用法に関する最良の実践として,このコミュニティにまさる権威はありえない.


また,言語変化を凍結させる力が辞書にないからといって,なにもかもをこまごまと統括しないといけなくなるわけではない.マクドナルドは,1988年の辞書には mischievious, inviduous, そして nuclear の「ニューキュラ」という発音などの語法違反がなんのコメントもつかずに掲載されるのではないかと懸念していた.それから四半世紀がたって,ぼくらはいま彼の予測を検証できる.辞書を引いてみてほしい.


〔※mischiev-i-ous は mischievous が標準的な綴り(と発音).他方,inviduous は invid-i-ous が標準.nuclear は「ニュークリア」と発音する.日本語で言うと,「雰囲気」を「ふいんきなぜか変換できない)」と読むようなもの〕


さて,ここでこの手の論争のなかでもいちばん大きくていちばんインチキなやつの登場だ.多くの規範的な規則がまもるに値するからといって,いちいちむかつく小言とかまことしやかな文法の話とか,むかしグランディ先生の授業で聞いてぼんやり覚えてることがぜんぶまもるに値するということにはならない.規範的規則のなかには,素っ頓狂な理由でできたやつや,明快できれいな散文の邪魔になるもの,何世紀にもわたって英語の大作家たちにシカトされているものだってたくさんある.いちばん悪名高いのは,分離動詞の禁止だろう(分離不定詞も含む).これのおかげで,裁判長にして文法にこだわる男ジョン・ロバーツは2009年に政権の危機を引き起こしてしまった.就任の宣誓を編集したとき,うっかりバラク・オバマに "solemnly swear that I will execute the office of president to the United States faithfully"(「誠実に合衆国大統領としての責務を果たすことを厳粛に宣誓します」)と言わせてしまった(憲法に記されている "faithfully execute" の順序ではなく).インチキ規則は都市伝説に似て,どんどん拡散するしなかなか根絶できない.そして,インチキ規則は原稿のぎこちない校正や知ったかぶりのあげつらいに責任がある.ところが,言語の専門家がデタラメな規則を正そうとすると,二分法屋の先入観からは,彼らがあらゆるよい文章の標準を廃棄しようとしているかのように思えてしまう.まるで,異人種間の結婚禁止だとか日曜に閉店しないといけないといったくだらない法律を廃止にしようと提案すると,「無政府主義者め」とラベルを貼られるようなものだ.


正しい用法なんて実は支配階級の会員証なんだという言い分はどうだろう? 前世紀なら,この考え方にも一抹の真理はあった.ヒッチングがそのすばらしい歴史書で書きとどめているとおりだ.でも今日ではこじつけというものだろう.どんな規準でも好きなように「1パーセント」を定義してみよう――財界,政府,文化,学術のトップでもいいし,なんならイギリス王室でもいい.どれをとっても,彼らが正しい用法とすぐれた文章の模範とは,なかなか主張しにくいだろう.言語通といえば,学校の先生だとか,「編集者への手紙」の書き手だとか,「三文文士通り」でインクにまみれたろくでなし(およびそのデジタル版の子孫)だとかになって,もうずいぶん長くなる.


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このように,用法の標準は,そのすべて恣意的だし永遠不滅でもなく,デタラメで捨て去るべきものも多いけれど,それでも標準があることは望ましい.言語に詳しい書き手に広く共有されているこの点の理解は,きれいな二分法には太刀打ちできない――とくに,二分法論者が勝手に拡大解釈したしろものについて物語をつくりだしたときには,とてもかなわない.ここで,『ニューヨーカー』が参加している「言語戦争」のもう一方の戦線に話がつながる.こちらでは,ジョアン・アコセラが数人の書き手からの引用文をねじまげて,自分の思うように相手を規範主義の紳士殿や記述主義のボヘミアン扱いしてあげつらっている.


このステレオタイプ化は,まず,ヘンリー・ワトソン・ファウラーの扱いにみられる.ファウラーは1926年の古典的な『現代英語語法辞典』の著者だ.彼の言う「上品な語法」(genteelism) について,彼女はこう記す.

ファウラーの定義によれば,「上品な語法」とは「頭にすぐ思い浮かぶ日常の自然な単語のかわりに,その同義語に置き換えること.この同義語は,手垢にまみれておらず,なじみがなく,平民らしさがなく,卑語でなく,不適切でなく,戯言と高貴さのどちらともつかず文章をそこなうことがないと考えられるものを選ぶ.」 一見して明らかなように,ファウラーは言語だけでなく道徳的な支えと真偽も問題にしていたのがわかる.多くの人には,彼はイギリスらしさとされるもの――品位とフェアプレイとローストビーフ――の理想化した見解を提示しているように見えたし,さらには,そうしたものを推奨し,果ては規範として指図するように見えたのだ.


実のところ,これはまったく「一見して明らか」ではない.明らかなのは,ファウラーは慎み深い文体を支持していたということだ.大西洋の両岸のあらゆる文章手本がそうしてきた.引用された一節には,道徳的な支えだとか真偽だとか品位だとかフェアプレイだとかイギリスらしさとされるものに関する話なんて痕跡もない.まして,ローストビーフの話なんて言うに及ばずだ.


長く愛されている Elements of Style をウィリアム・ストランクと共著で書いた E. B. ホワイトは,ファウラーのアメリカ版に当たる.彼も,ポーチニックな態度をとっている.ファウラーの一節をローストビーフにつなげたというイギリスの「多くの人たち」とやらと同じく,アコセラはアメリカの「一部の人たち」について語る.アコセラによれば,この人たちはホワイトの文章から「パイプをくわえてスリッパをはく」〔ような優雅な暮らしをしている階層の〕閉鎖的クラブらしさを連想するそうだ.共著者のどちらも「鉄鋼労働者に英語の使い方を教えることに関心をもっていない」んだろうと彼女は推測してみせる.だが,彼女はこの関心の欠落を推量するのに,彼らの文章をまったく引用していない.「彼らの気楽さ,ウィット,そして規範を示そうという意欲」だけを推測の理由にしている.彼女によれば,こうした性質は鉄鋼労働者に評価されないのだと想定しないといけないらしい.アコセラはこれに続けてホワイトから抜粋して,「文体は作文のいろんな原則よりも心の態度によって最終的な形が決まるところが多い」という「道徳的な観察」とわかりにくさは「人生と希望の破壊者」だという警告を挙げる.ここから,彼女はホワイトの文体哲学を引き出す:「ようするに,よい文章を書くには,よい人にならねばならないというわけだ」 


メイン州の田舎暮らしを温かく書き記したり,やさしい児童書の古典『シャーロットの贈り物』『スチュアート・リトル』を書いたりしている E. B. ホワイトが,ほんとうにそんな高慢な気取り屋だったりするだろうか? 実は,アコセラが引いた一節は地に足のついた助言であって,退屈な道徳話や凡人に対する軽蔑なんてかけらもない.はじめに,著者たちは書き手たちに,読者に上からものを言うんじゃなく彼らの知性を信頼するようすすめる.次に,具体的に不明瞭さが人生と希望をどんなふうに台無しにするのかを述べていく:「悪文で書かれた道路案内のせいで高速道路で亡くなった人,善意から書いた手紙でちょっと見当違いな一節をいれたばかりに起きた恋人たちの失恋,汽車の駅で待ち合わせをしようと思っていたのにずさんな電文のせいでいきちがいになった旅行者の苦しみ」


こんな風に規範主義者たちに機嫌良く無責任に階級的な鼻持ちならなさをおしかぶせることを,アコセラは『アメリカン・ヘリティッジ英語辞典』のレビューでも続けている.同辞典の創刊編集者は,「知性ある人々が辞書にもとめる優美さと正確さへの理にかなった指針」を提供しようと模索した.それのどこがエリート主義なんだろう? それはですね――とアコセラは説明する――想定読者を考えてみればいいんですよ:「知性ある人々,辞書の利用者:それは万人ではない」 ええ,それはそうでしょうとも.でも,そうなると,疑問が浮かぶ.彼女の基準で非エリート主義に該当するためには,辞書はどうなっていればいんだろう? おそらくは,辞書を利用せず知性のない人たちに訴えるようなもの,といったところだろうか.


Part 3 につづきます