指示表現と視点の取り方:山岡洋一氏の指摘
翻訳家・山岡洋一氏の「飛躍と密着の間」から,ある英文和訳の例を引きます:
暴漢がこちらにやってくるとか、車が吹っ飛んでくるとかいう情景をなかば覚悟して、マーティはふりむいた。だが、いつもの静かな住宅街にいるのはマーティただひとりだ。
(Turning, she half expected to see an approaching assailant or a hurtling car. Instead, she was alone on this quiet residential street.)
山岡氏によると,この訳文の最後のセンテンスはいまひとつよくないとのこと.なぜかというと,
「なかば覚悟して」の部分で、読者はマーティに感情移入する。だから、マーティの視点でふりむく。ところが、「マーティただひとりだ」の部分で突然、視点が変わる。映画でいえばキャメラの位置が突然、上に、あるいは10メートルほど離れたところに変わるのだ。だから目眩がする。
(太字は引用者によるもの)
「ふりむいた」につづくセンテンスはマーティがみつけたことを表すので,ここは彼女の視点をとるのが小説の描写としてふさわしいわけですね.
ためしに,「マーティ」を「自分」に置き換えてみましょう:
暴漢がこちらにやってくるとか、車が吹っ飛んでくるとかいう情景をなかば覚悟して、マーティはふりむいた。だが、いつもの静かな住宅街にいるのは自分ただひとりだ。
こうするだけで,マーティの視点による描写になります.山岡氏が「「マーティただひとりだ」が「自分だけだ」になって、目眩がしない文章になる。」と書かれているとおりです.
裏返すと,固有名詞の「マーティ」はそれが指し示す人物以外の視点を喚起しているということでもあります.