「時制=遠近対立」説に対するテイラーの批判
上記のエントリで言及した「時制=遠近対立」説に対して,認知文法の代表的研究者であるジョン・テイラーが次のように批判しています:
前節で,共通する意味成分を用いて指小辞を統一的に説明するヴィアズビカの試みに言及したが,過去時制に関しても中核的意味による説明が提案されており,パーマーは次のように述べている.
過去時制が持つ非現実の用法と過去の用法が本質的に同じであり,過去時制は「遠隔 (remote)」という意味を持つ.(過去の用法を表わす)時間的な遠隔性も(非現実の用法を表わす)現実性における遠隔性も,同じであるということが指摘されているが,この考え方には魅力がある.というのも,一つの用法しかないと見なすことができるからである.
(Palmer 1974: 48)
指小辞の場合にもそうであったように,たとえば,[遠隔性]というような共通する意味成分に基づいて過去時制を〔ママ〕さまざまな用法を統一し,実際,過去時制には本当は一つしか意味がないと主張する試みは,誤りであろうと私自身は考えている.第一に,「遠隔さ」という概念はあまりに一般的で,過去時制の諸用法を予測する公式としては役に立たない.そうした公式が正しければ,過去時制は,過去だけでなく未来についても表わすことができ,話し手から空間的に離れたところで起こる現在の出来事を指すこともできるはずであろう.より重要なのは,その公式では,過去時制のさまざまな意味が概念的に明確に異なるという事実を無視してしまっている点である.過去における遠隔性は,フィクションにおける遠隔性や現実性に関する遠隔性とは,異なる種類の遠隔性である.語用論的な緩衝表現の意味成分としての遠隔性は,「近さ」と「関与」,「距離の遠さ」と「関与の欠如」を結びつけている非常に個別的な概念メタファーが仲介している.さらに,単一の意味を過去時制に割り当てると,過去時制が持つさまざまな意味が,その生産性において一様でないという事実を十分に考慮することができない.指小辞の場合にもそうであったように,過去時制の周辺的成員ほど,中心的成員に比べて,偶発的で予測不可能な方法でしか実現されない.ここで問題になるのは,動詞に過去時制の形式が存在するということではなく(一つか二つの微妙な事例[fn2]を除いて,英語の動詞は基本的にすべて過去時制の屈折形を持つ),それらがどのような文脈で用いられるかということである.過去を指すのに用いられるときは,実質的に,過去時制の動詞の用法に何ら制限は課せられない.一方,反事実事象を表わす標識としては,過去時制は典型的には,少数の統語的な環境(If..., Suppose... あるいは I thought など)に限られている.語用論的な緩衝表現としての過去時制の用法はさらに限られている.かなりパターン化された少数の表現 (What was your name again?) を除くと,語用論的な緩衝表現としての過去時制は,基本的に少数の法助動詞(could, should, might など)との組み合わせで使われる.さらに過去時制の助動詞は意味的な特殊化を経てきており,この特殊化は指小辞のついた形式との関連で前に注釈した現象である.アフリカーンス語 (Africaans) の vuurhoutjie 「(点火用の)マッチ」は,指小辞がついているけれども,意味的な観点から見れば,もはや指小辞ではない.同様に,過去時制の助動詞は,過去時制の語用論的な緩衝機能の方に視点を投射してきており (perspectivized),現在,過去を示すために使われることはほとんどない[fn3].
ぼくとしてはテイラーの基本的な立論に共感を覚えます.しかしながら,テイラーが挙げている批判の論拠のうち,“遠さという点では過去も未来も同じなのだから,-ed 形態素が本当に遠隔ならば過去だけでなく未来も表せてよいはずだ”という部分には,ラネカーはあらかじめ反論できるようになっています:すなわち,
遠近の対立は現実領域において現在と過去の対立に対応するのであって,未来は非現実である;したがって遠隔形が未来にならないことは自分の仮説から正しく予測されている
というわけです.
- 作者: ジョン・R.テイラー,辻幸夫、鍋島弘治朗、篠原俊吾、菅井三実
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
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