事実を表さない過去完了 (Declerck 2005)
デクラークの論文*1で興味深い観察が記されています:
(19) John {saw / had seen} Mary before she saw him,
[so she had no chance of escaping him. He ran to her the moment he saw her.]*2
(ジョンはメアリーに見られる前に彼女を見た[だから彼女は逃げられなかった.彼はメアリーが見るより先に駆け寄ってきた.])
(20) John saw Mary before she had seen him. *3
(ジョンはメアリーに見られる前に彼女を見た.)
デクラークによれば,例文 (19) では過去時制の saw はメアリーがジョンを見たことを意味するのに対して,(20) の過去完了 had seen は必ずしも見ていないという意味になるとのこと.そのため,(20) に続けてメアリーがジョンを見たと言っても見なかったと言っても矛盾は生じません:
(21) John saw Mary before she had seen him. [So he quickly concealed himself and escaped having to talk with her.] *4
(ジョンはメアリーに見られる前に彼女を見た[そこで彼はすぐさま隠れて彼女と話さずにやりすごした.])
(22) John saw Mary before she had seen him, [but he waved at her and drew her attention.] *5
(ジョンはメアリーに見られる前に彼女を見た[が,手を振って彼女の注意をひいた.])
この (20) のような例をデクラークは「定位時に相対的な非事実性」*6 と呼んでいます.つまり,主節の時点=定位時においては before節の事態は事実でない,というわけです.
By 'nonfactual relative to some time of orientation' (TO-nonfactuality) I mean that the actualization of the situation referred to in a subclause is represented as not (yet) being a fact (and hence as 'still potential') at a given time of orientation (TO), which is normally the time of actualization of the head clause situation. *7
(ここでいう「定位時に相対的な非事実性」とは,従属節で指示されている状況の実現が任意の定位時では(いまだ)事実でないと示されることを意味する.通常,この定位時は主節の状況の実現の時となっている.)
しかし,この記述は少しおかしいように思います.主節=定位時においてメアリーが見ていないという点では factual な (19) の例も同じだからです(だって,見られる前に見たわけですから).
デクラークの意をくんでもっと正確にいうとすれば,発話時の話し手視点からみて 事実となっているかどうかが (19)-(20) の相違だと言えるでしょう:
このように訂正する必要はありそうですが,デクラークの観察そのものは興味深いものと思います.なぜ before節で過去時制が事実を意味し過去完了が事実を意味しないのか,気になるところです.