寺村 (1984) から抜粋:コトと主観的判断の「融合」
やっぱり寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味』は勉強になります.
- 作者: 寺村秀夫
- 出版社/メーカー: くろしお出版
- 発売日: 1984/09/20
- メディア: 単行本
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日本語を勉強している外国人の多くがふしぎに思う過去形の使いかたに,次のようなものがある.
たとえばある学生が奨学金がもらえるようになった,と言ったのに対して,
(37) ソレハヨカッタデスネエ
と言うような場合の「タ」である.店で買いものをしたときに店員が
(38) アリガトウゴザイマシタ
というのや,また人を待たせたときの,
(39) 待タセテスマナカッタネ
という,その「タ」も同じ性質のものであろう.祝福の気持や,感謝とか謝りの気持は現在のものであるのに,どうして過去形を使うのか,という疑問である.
(pp.89-90)
寺村によれば,(37)-(39) は「コトを表わす部分」と,「話し手の主観的な判断〔…〕を表わす部分」が「いわば融合して一つになった構文」(pp.91-2) とのことで,つまり:
(39')
待たせたコトに対して,私は今あなたにすまないと思う
―→ 待タセテスマナカッタ (39)
という意味内容のうち,「待たせた」の過去が「すまなかった」の「タ」によってあらわされていると寺村は考えるようです.
この「タ」が英語を話す人にとって,ふしぎに思われるのは,英語では,この表現は,
(47) I am sorry to have kept you waiting.
という構文,つまりコトとそれに対する話し手の今の気持とが分離して表される形になるからだと考えられる.寺村 (1971)(→付録327ページ)で話題にした,
(48) 来テヨカッタ
(49) I am glad I came.のような場合にも同じことがいえよう.
(p.92)
こういうふうに見てくると,日本語にも英語にも,主観的な判断の部分と,その判断の対象・内容であるコトとか,表面上 分離した形で出てくる場合と,それが融合した形で出てくる場合があること,その点で二つの言語が並行する場合と喰い違う場合があること,テンスは,その両部分に関係するが,判断部分が判断時,つまり現在の形をとるときと,判断内容であるコトのテンスにいわば引きずられる場合があることなどがわかってくる.そして文が客観的な事実の報告ではなく,ある事柄に対する話し手の主観的判断,評価,気持などを表わす場合には,単純に表面上の形だけの比較だけでは,異なる言語の相似,相違の興味ある様相に迫ることはできないことも分かってくる.
(Ibid.)