丸山眞男:人/禽獣

儒学の古典,したがってまた江戸時代の学者の論著においてしばしば出会うのは,人は礼をもつことによって禽獣と区別される,とか蟄居して教えなければ,禽獣と同じになるとかいう発想である.

 キリスト教の原罪的思想から見れば,こういう命題は,逆にいえば,礼を習得しさえすれば,教を受けさえすれば,人倫が実現されるという意味を含んでいるから,人間性に対するナイーヴな楽天主義を表現していることになるだろう.しかし人間がどこで禽獣と区別されるのか,人間の尊厳の根拠はどこにあるのかが切実な問いとして意識されなければ,あれほどのくどさで右のような命題をくりかえすこと自体がそもそも起りうる筈がない.つまりこういう命題の背景には,人間と禽獣とはほとんど紙一重の差しかなく,したがって,その紙一重のしきりが破られた瞬間に人間行動は禽獣と同じレヴェルに顚落する.その顚落の可能性は,昔々あったのではなく,いつでも,只今この瞬間にもあるというクリティカルな意識が流れていたわけである.テクノロジーの進歩によって,人間と動物との文明度のギャップが日常的な見聞事においてあまりにも顕著になったために,人間の動物からの倫理的進化は,生物学的進化と同様に太古の出来事としか受取れなくなり,そのことによって,かえって人間存在の危機一髪的性格が切実に感じられなくなってしまった.儒教の右のような命題を陳腐なお説教としてわらう事しか知らない現代人は,その行動様式においてますます動物的になりつゝある.おそるべき逆説がここにある.

丸山眞男『自己内対話』p.159;太字部分は原文で傍点)