「日本語は非論理的である」


という表題の言明が意味するところがよくわかったというケースがあまりありません.

 「非論理的」は「論理的」を否定しているのですから,この言明のうらには「日本語は論理的である」があることになります.

 この2つの言明をくらべてみて,一方では成り立つけれど他方では成り立たないような事態があれば,それがつまり「論理的」「非論理的」の意味のちがいだと考えてよいでしょう.

 では,それはどのような事態なのでしょうか.

 主語が省略されていることをさして「日本語が非論理的である」の一例としているひとがたまにおられますが,では表層に主語があると「論理的」なのでしょうか*1

 たとえば,ぼくが「うう〜,眠いです」と発話したら,主語はないとしても話し手=ぼくが眠いと理解されます(なぜそうなるか,ということは脇に置きましょう).したがって,こういった場合にも「眠い」という述語はちゃんとその項をもっているわけです.

 「主語がないので非論理的である」という推論になんら不明瞭なところがないと感じられるひとも,このことは知っているはずです.

 では,そうしたひとは,「表層に主語がなく,かつ,述語の意味的な項がちゃんと聞き手にも理解されているとき,そのことは当該言語が“非論理的”であることの一例である」と主張しているのでしょうか.

 そうであるなら,理解される記述的な意味が同一であっても,「私は眠い」と発話するなら“論理的”で,「眠い」と発話するなら“非論理的”だという話になります.

 すると,「非論理的」vs「論理的」のちがいは意味内容にかかわらないのでしょうか.

 こういう主張で言われる「論理的」とはどういうことなのか,よくわかりません.

 「日本語は非論理的である」という主張には脊髄反射的に「むきー,そんなことはありません」と返したくなるのですが,よく考えますと,何を言っているのかよくわからない言明は肯定も否定もしようがありません.


 またひとつ己の無知を悟ったのであります.


追記


なお,このエントリを書いたきっかけはdaiyaさんによる書評にあった次の箇所です:

後半で、著者は、自分にはできないがと前置きした後、実は主語が明確に出ていない文章こそ、日本語の非論理性を自然に表した文章であると述べている。ただしそれは文章の巧みな人にのみ許される高度な技である、とも。

(「文章をダメにする三つの条件」 − 情報考学 Passion For The Future;強調は引用者によるもの)

*1:ceteris paribus