感傷だけじゃだめだけど…

一八五四年にランカシャー南部方言の語や語法の収集を行ったサミュエル・バムフォードほど,方言の情緒がもたらすロマンティシズムや郷愁をうまく表現した人はない.

私たちが住んでいるこの場所を去った昔の人々,私たちが占拠している土地を捨て,いわば私たちが入る前に家のドアを閉めて立ち去った人々のことを,歴史を通じて沈思すること,記憶することは喜びである.私は彼らのことを思い出したい.もう少し長くいてくれればよかったと思う.そして,私たちが到着したとき,彼らがそこにいてくれればよかったと思う.戸口に近づき,彼らをさがす.通りを,路地を,牧草地を,森をさがし回る.だが,高いところにも低いところにも,遠くにも近くにも,昔の人々の姿はどこにも見えない.私たちは失望して自分の部屋に戻ってくる.もし彼らが一緒にいてくれたら過ごせたはずの楽しい時間を想像する.彼らの服装やつば広の帽子や古風な折り襟や「巻き毛と靴」[バックルとシューン]を見ながら,昔話に耳を傾け,その声の調子や荒削りな訛りを聞いたらどうだったろうか.だが,そんなことは不可能である.彼らはいなくなり,もう帰らない.彼らにあったこともなければ,これからも会うことはない.そして再び私たちは悲しみと失望にくれる.だが,哀惜のさなかに一冊の本に気づく.それを開く.その中には私たちが惜しんでいた人々の肖像ばかりでなく,彼らの昔話や荒削りな言葉があり,その声の調子までが私たちのために保存されている.幸せな気分でその宝物の前に座り,それが与えてくれる精神的な喜びに浸る.私がここを去る前にそんな本を古い家の書棚に置きたいものである.


 文章が感傷的なのは,このジャンルでは典型的なことである.二〇世紀後期の硬めの論調に慣れていて,このような文章には心動かされない人々ももちろんいるだろう.だが,そこにあらわされている純粋な感情は無視できない.この文章を長々と引用したのは,言語の死という概念になじみのない人々に,その可能性が目の前に迫った人々の気持ちを伝える助けになると思ったからである.危機に瀕した「ただの」方言にそんなに感情をこめてどうする,と思うかもしれない.危機に瀕した一言語に関してなら,もっと強い感情表現が許されるのだろうか.


(デイヴィッド・クリスタル『消滅する言語』中公新書,pp. 52-53)