排除し駆逐すべきです:ただし人ではなく発言を


東氏の件の補足です.

はてな匿名ダイアリー”のエントリ「まあ、東浩紀も一応予防線は張っていて」は,tikani_nemuru_Mさんの「『無限に開かれた討議』というのは、根拠とか証拠とかデータを参照せずに、ひたすら思いこみだけでしゃべることも認めなくてはならにゃーようですにゃ」という指摘を取り上げ,これに対してありうる反論を示しておられます:

それでは「ひたすら思い込みでしゃべる」人間を公共圏から駆逐していいのか、それが「公共圏」なのか?という反論も可能でしょう。


「ひたすら思い込みで」なされている発言は,まともに取り上げられないとか批判されるといった対応をされることでしょう.言い換えれば,妥当な議論の仲間入りはさせてもらえない,ということです.

 これが不当であるという話になりますと,そもそも議論や批判といった営みの目的が失われることになります.妥当な議論とそうでないものを吟味し区別するのが批判の第一歩だからです.

 とはいえ,これはあくまで発言を排除するのであって*1,当の人間が排除されるわけではありません*2.また,議論の批判・まちがいの指摘は,相手をおとしめるものではありません.

 そうは言っても,「ひたすら思い込みで」しか語れずよりよい議論の仕方を学習することもできない人は結局のところその発言がことごとく排除されることになり,実質的に人が排除されているのと同じことになるのではないか,という懸念はありえます.

 ですが,上記と同じ理由でこれも容認するわけにはいきません.議論が妥当なものとして受け入れられるためには,その方に学習のコストを負担してもらうほかありませんし,また,その最低限の機会は公教育が提供することになっているわけです.

 理念の話から目を転じて実状をみますと,「ひたすら思い込みで」なされる発言そのものも,排除されるどころか大いに歓迎されているケースもしばしばです.そのようなケースが増える方がいいのか少なくなる方がいいのかと自問してみるなら,答えは明らかです.*3

 この点は,上記エントリでも「『ひたすら思い込みでしゃべる』人間を駆逐することがそもそも可能なのか」と書かれているように,そもそも「ひたすら思い込み」による発言を完全に排除・駆逐することが可能だとは考えにくいでしょう.そうであっても,100%の達成がありえないからといって60%の達成をあきらめるにはおよびません.

 これに関連する東氏の発言は次のとおりです:

教育をよくするって言っても,それによって救われる人もいれば,必ずこぼれ落ちる人もいます.その時に,市民であり公民であることが正しい人間であり,それを育てていくことでしか社会は変えられないという理念に対して,ぼくは違和感がある.ぼくの関心は,むしろ,全員を市民や公民に育てあげることなど不可能だという諦めのうえで,でもそれでもいい社会をつくるにはどうするか,というところにある。
大塚英志東浩紀『リアルのゆくえ』,講談社現代新書,2008年,p. 231)


そのような社会はまがりなりにも私たちのまわりで実現しています.もちろん理想的ではないでしょうが,かなり良い線をいってるんじゃないでしょうか.

*1:追記:それも,当然ながら公開されたのちに批判し「妥当でない」とするのであって,公開そのものを阻止するわけではありません.

*2:でたらめを書いて回る,他人になりすまして発言するといった行いを重ねれば人が排除されることになるでしょうけども,これはまた別の問題です:

*3:より“洗練された”反論としては,そのような議論の妥当性を決める規準が(何らかの形で)偏っており,そのような特定の規準によってなされる排除は受け入れがたい,という議論もあるかもしれません.しかし,ここで具体的に問題になっている「ひたすら思い込み」による発言に限って言えば,これを認める規準を認めたその瞬間から,そもそも特定の規準によって妥当性を検討するという行為が無効になってしまいます.当の規準をみずからの思い込みで決めればよいことになるのですから.