伊勢田先生 on 「1.5」


青山学院大学の先生が光市の事件に言及して「被害者は1.5人」と発言したとされブログが炎上した件(まとめページ)について,伊勢田哲治先生の日記(2008年4月29日)はもっと読まれてよいと思います:

1.5というあからさまに不可解な数字をいきなり出している以上、それについての説明があるはずだ、と考えるのはprinciple of charityの第一歩である。この場合、すぐあとにかっこで文章がそえてあるのだから、まずはそこに説明があるのではないかと推測してみるべきである。そこにあるのは「傷害致死の可能性は捨てきれない」という記述で、「1.5人」の説明として書いてあるのでなければかえってここでいきなりこの話を持ち出す理由が不明となる。その意味からもこれが「1.5人」の説明なのだろうと推測できる。

傷害致死の可能性がどう関係するのか分からなくて解釈をあきらめたひとや、「死にやすい人間は価値が低い」とさらに無茶な主張へと解釈した人も多いのだろう(でももしそれが瀬尾氏の言いたいことなら「死にやすい」というのが「傷害致死」を疑う根拠という文章構造になっている理由が不可解になる)。しかし、相手があからさまにとんでもない主張をしていると思ったら、自分の解釈の方を疑うのがprinciple of charityというものである。ここで、傷害致死ならば殺人は1人だけということになる、ということに思い至れば、1.5という数字の手がかりは得られる。書き直した版で「どちらと信じる理由もないので」とあるのは統計学でいう「無差別の原理」(principle of indifference)をあてはめたもので、起こりうるいくつかの事象があってそれぞれの相対的な確率について何の情報もないときにはすべてに同じ確率をわりあてるというやり方である。この場合は可能性は二つ(殺人2人か殺人1人か)で、無差別の原理によりそれぞれ2分の1の確率をわりあてると、「期待値」としては殺した人数は 1.5人となる。もちろんもとの版ではこんなに正確には書いていないが、出発点と結論が分かっているから間を埋めるのはそれほど難しくはない。


※次の箇所を読み飛ばさないこと:

以上のように書いたからといって、発言内容全体を弁護するつもりはない。「個人的意見」の内容自体非常に無責任な推測で、ここで解釈したように理解してもつっこみどころはたくさんある。というか刑事裁判の考え方や量刑の考え方がまったく分かっていないと言われてもしかたがないだろう。なので、本人の説明はprinciple of charityを発揮した解釈の下でも 1.5という数字を正当化できるようなものではない。しかし、子供の命を0.5人分と公言することの道義的責任と隙の多い誤解されやすい発言をすることの道義的責任はずいぶん違うだろう。

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