チョムスキー:規則随順について


以前,サールが規則随順 (rule-following) について話しているインタビューを訳してご紹介しました(「おしえてサールせんせい:チョムスキーと規則随順問題」).一方,そこで批判されているチョムスキーは次のように述べています:

スウェーデン語とデンマーク語,規範と慣行,コトバの誤用,などの〕こういった諸概念に頼るのは,「ルール・フォローイング(規則に従うこと)」を説明しかつコミュニケーションという事実を説明するためである,というのが一般的な想定です.たとえば,ストローソンが1983年のウッドブリッジ講義においてヴィットゲンシュタイン流の論点を述べているように,ルール・フォローイングが根源的なところで存在していると認められるのは,共有されている共同体言語の習慣である,「『言語習慣の共通の協約』,つまりは共有された一つの生活形式,に関して,規則の使用あるいは適用の『正確さ』の基準が存在する場合だけなのです.これが「日常言語哲学」のドクトリンだというのは,日常言語というモノが実に異なった推移をするのですから,奇妙なことかもしれません.わたしの孫娘がかりに "I brang the book" と言うようなことがあっても,「共通の協約」に反して,「sing 〜 sang 〜 sung」という交替に関わっている規則に従っているのだと言い切ることができます.たしかに,孫娘の内言語が変化し, "brang" を "brought" で置き換えるでしょう.この置き換えがない場合には,ほかの多くの点は別にしてもまさにこの点で孫娘はわたしの言語とは異なった言語を話すことになるでしょうし,それも,この話がなにがしかの意味を持っている限りにおいては,その言語を「正しく」話すことになるのです.意味についての問題というのは,ほかの事柄とは異なっており,かつ,なにかしらより深遠である,と一般に考えられています.しかし,この点は論証されなければならないのです.もっと言うなら,意味の問題は単にほかの問題より判然としていないだけで,関係部分では異なってなどいない,と思われるのです.

 ルール・フォローイングが,あるいは一般的に心的状態や心的過程が,根源的なところで存在しているという場合には,意識の接近が必要である,というドクトリンを考えてみましょう.これは用語上の措定にすぎず,共通の慣用に反しており,科学がおこなうようなやりかたで言語と思考を探求する際には使えないのです.ですからこの措定をすると途端にさまざまな絶望的な問題が吹き出てくるのです.このドクトリンを,たとえばジョン・サールが最近いろいろ努力してこれまでの明白な問題点を回避しようとするように,「原理上の接近」という説明のない(したがって,思うに,わけのわからない)概念で補完したところで,このドクトリンはもっと不可解になるだけなのです.この点はほかのところで論じているので,ここでは述べないことにします.

チョムスキー『言語と思考』大石正幸=訳,松柏社,1999年,pp.14-5;原書:Language and Thought, 1994.)


とりあえずメモだけです.正直に言って,よくわからないもので.