市川浩の「主語=主題化機能」論


認知言語学/機能言語学とは別のすじみちで「主語=主題化機能」のアイディアを提示していたんですね:

 知覚するとき,われわれは「何か」を知覚する。その「何か」は意識の焦点にあって明瞭に把握されている〈図〉であるが,そのまわりには,不分明にしか把握されず,あるいはほとんど意識されていない前意識的な〈地〉がひろがっている。すなわち意識野は,一様の無差別な場ではなく,図と地という分節をふくんでいる。図と地の境界は,厳密な意味での図と地(ルービンの図形など)の場合は別として,かならずしも明瞭ではない。


 またこの分節化は,意識の対象ではなく,対象を志向する志向性の内的構造にほかならないから,ふつうは意識にのぼらない。しかし分節が存在し,前意識的にしろ,分節化作用としての〈図化〉が暗黙のうちに把握されているかぎり,それを意識化することは可能である。すべての事柄が〈主語−述語〉の形式で判断され,のべられうるとすれば,その可能性は事実上こうした分節化作用(図化)が存在することにもとづいている。いいかえれば主語は,なにかを志向し,主題化し,図として浮かびあがらせる分節化作用のうちにふくまれている。


 それゆえ究極の主語は,強い意味でも弱い意味でも実体ではない。それは無名の指示作用としての図化であり,「あるもの」 something としての x ではなく,「目下の主題(図)は……である」ということを示す主題化の機能としての x にすぎない。主語を任意の何かにしろ,「あるもの」として考える傾向は,西欧に根づよくのこっている実体論的志向と無関係ではないであろう。このような考え方は,非人称的表現 (It's cold. etc.) や,しばしば主語を欠く日本語の述語主義的表現(しかも幼児語ではない)を理解することができない。非人称主語や主語の欠如の現象は,単なる例外的な現象でもなければ,言語の未熟態でもない。むしろそれはもっとも究極的な主語が,「あるもの」ではなく,対象的には空虚な〈図〉であり,主題化作用であることを示している。そして主題化された対象が名辞化されたとき,事態は世界の中での諸関連から切りはなされ,言語的事態として独立する。


市川浩『精神としての身体』講談社学術文庫,1975/1992年,pp.141-2)


僕が知らなかっただけで,よく知られたことなのかもしれませんが.


精神としての身体 (講談社学術文庫)

精神としての身体 (講談社学術文庫)


市川浩メモリアルサイト:
http://homepage3.nifty.com/ISOP/index.html

2008-07-29追記

虚辞の it/there に関する認知言語学的な議論をまとめたものとして,深田智・仲本康一郎『概念化と意味の世界』のセクション4.1.1.3「抽象的なセッティング」が有益です.


概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ (講座 認知言語学のフロンティア)

概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ (講座 認知言語学のフロンティア)