交換と強盗のはなし


[2008-11-30:updated]


以下の文章は,macskaさんのエントリ「経済学S1/自由貿易−−「現状をよりマシにすること」と「正しさ」の違い」で述べられている見解に対して,ちょっとちがう見方を提案するために書きました.


 macskaさんは(架空の)強盗の例と自由貿易には「当事者双方にとってより良い結果をもたらす」という共通点があり,当事者双方の利益を理由にして自由貿易はすばらしいというなら強盗もすばらしいと言わなくてはならないのではないか,と指摘しておられます(このエントリの末尾に該当箇所を引用しています).

 しかしながら,ここでいう「よりよい結果」には2とおりの意味があります.macskaさんが着目しておられるのは,そのうちの一方だけのように思われます.

 そのことを例示するため,かんたんな架空のシナリオを2つみてみましょう.

シナリオ1:アメとチョコの交換


 いま,太郎くんと花子さんがアメとチョコを1個ずつもっているとしましょう.

 2人はお菓子の好みがちがいます.太郎くんにとってアメは「10ウマイ」でチョコは「20ウマイ」,花子さんにとってアメは「20ウマイ」でチョコは「10ウマイ」です.*1

 すると,このとき2人の手にしている「ウマイ総数」は次のようになっています:

  • 太郎くん:アメ1個×10 + チョコ1個×20 = 30ウマイ
  • 花子さん:アメ1個×20 + チョコ1個×10 = 30ウマイ


 そこで,2人はアメとチョコを交換することにします.おたがいにとって 10ウマイを手放して20ウマイを手にしますから,20-10 = 10 ウマイがプラスされます:

  • 太郎くん:アメ0個×10 + チョコ2個×20ウマイ = 40ウマイ
  • 花子さん:アメ2個×20 + チョコ0個×10ウマイ = 40ウマイ


どちらも,交換する前よりもウマイ総数が増えました.「当事者双方にとってより良い結果」がもたらされています.

 交換した場合とそうでない場合について太郎くんの状態の変化を図にしてみますとこんな感じです:


シナリオ2:チョコ強盗


 次はこんなシナリオを考えます.残忍非道なチョコ強盗がいて,チョコを差し出さないと殺すとおどすのです.今回は,あわれにも太郎くんがカモにされます.さすがにたかがチョコで殺されるのはイヤなので,太郎くんは強盗にチョコを差し出します.すると,強盗に遭う前後で太郎くんの「ウマイ総数」は次のように変化します:

  • 強盗に遭う前:アメ1個×10 + チョコ1個×20 = 30ウマイ
  • 強盗に差し出した後:アメ1個×10 + チョコ0個×20 = 10ウマイ


 ウマイ総数は減ってしまいましたが,差し出さなかった場合は「死」ですので,ずっとマシです.

 また,強盗にしてもまんまとチョコをせしめることができました.

 なるほどチョコを差し出した時の方が「当事者双方にとってより良い結果」がもたらされています.



 でも,太郎くんの状態は悪化している点を忘れないでくださいね.

2つのシナリオが似ているところとちがうところ


 さて,2つのシナリオをみてきました.

 両者には似ているところとちがうところがあります.

 似ているのは,一方の選択肢の方が他方よりも「ベター」だという点です.

 最初の「アメとチョコの交換」では,交換したときの方がしなかったときよりもウマイ総数が上回っています.また,「チョコ強盗」では,チョコを差し出したときの方がそうしなかったときよりもマシです.

 ですが,両者にはちがいもあります.2つの図を見比べてください.


交換の場合には,交換する前よりも交換した後のウマイ総数の方が「ベター」になっています.(もちろん,交換しなければウマイ総数は変化しません.)

 ところが,チョコ強盗では,マシな選択肢である「チョコを差し出す」を選んだときにすら,ウマイ総数は減ってしまっています.(それでも死ぬよりはずっといいですけど.)

 さて,「アメとチョコの交換」シナリオは交換によって太郎くんと花子さん双方の状態が改善されるというもので,これをもっと洗練すると「自由貿易はすばらしい」というはなしになることでしょう.ここで比較しているのは交換する前後の状態(ヨコ方向)であって,交換する場合としない場合(タテ方向)ではありません.

 この点を見失いますと,交換シナリオと強盗シナリオは似たり寄ったりの同類だというはなしになってしまいます.

macskaさんのエントリからの引用

強盗の例:

もう一つ極端な例として、ある人が別の人に暗闇で銃をつきつけて「命がおしければ財布を寄越せ」と脅迫した場面を考えてみる。この場合も、自由意志に基づく自己決定権が保証されているとは到底言えないが、「言われた通りに財布を出す(取り引き)か、抵抗する(取り引きに応じない)か」という選択肢がある。抵抗して銃で撃たれて死ぬことに比べれば財布を失うだけで済む方が被害者にとって利益になっているし、犯人にとっても財布を奪うために人殺しなんてしない方が良いに決まっている。この場合でも、やはり「取り引き」は「当事者双方の効用を上げる」ことに違いはない。

強盗と交換の共通性についての箇所:

では、どうして経済学者たちは「従属論にも過去には根拠はあった」とか、「奴隷制度は含めない」とか、「財産権が確立されている限り」とか、「自発的」でなければいけないとか、いろいろ制約をつけたがるのだろうか。旧植民地、奴隷制、強盗犯の三つのケースを見る限り、どんなに不公平で不自由な状況であっても、交換するかどうかの選択が許されてさえいれば、「交換は常に当事者双方の効用を上げる」と言えるはずなのに!より広い現象を説明できるはずの理論を持ちながら、その適用範囲をわざわざ狭める理由がどこにあるのだろうか?

追記:「正しい」について


飯田泰之先生の「自由貿易は正しい」という発言を macskaさんは問題にされていますが,これは“貿易政策としては(保護貿易ではなく)自由貿易が正解だ”という趣旨だろうとぼくなら解釈します.

孫引きしますと,飯田先生の発言は次のような文脈にでてきています:

以上のごく簡単なことからすぐに導かれてしまう経済学の基本テーゼというのが、ここで資料のほうには「自発的交換は経済厚生を促進する」というちょっと硬い言葉で書きましたけれども、これは一番簡単に言うと、自由貿易が正しい、ということを言っているのと同じです。セミナーの雰囲気とかをあまり考えていなかったので、ちょっと硬めな言葉で書いてしまいましたけれども、これは具体的に言うと、自由貿易はつねに正しい、という話です。
(※強調は optical_frog によるもの)


発言の文脈を見ますと,「自発的交換は経済厚生を促進する」のくだけたパラフレーズとして「自由貿易は正しい」と発言されているのがわかります.

 これを引いて macskaさんが述べておられる問題提起は次のとおりです:

では、どうして経済学者たちは「従属論にも過去には根拠はあった」とか、「奴隷制度は含めない」とか、「財産権が確立されている限り」とか、「自発的」でなければいけないとか、いろいろ制約をつけたがるのだろうか。旧植民地、奴隷制、強盗犯の三つのケースを見る限り、どんなに不公平で不自由な状況であっても、交換するかどうかの選択が許されてさえいれば、「交換は常に当事者双方の効用を上げる」と言えるはずなのに!より広い現象を説明できるはずの理論を持ちながら、その適用範囲をわざわざ狭める理由がどこにあるのだろうか?


その謎を解く鍵は、飯田さんがこの報告で何度も繰り返す、「自由貿易は(つねに)正しい」という言葉だ。これまでの話では「自由貿易は、それがなかった場合に比べれば、当事者双方にとってより良い結果をもたらす」ということは十分に示されたと思うが、それが「正しい」かどうかはまた別の問題だ。何が正しいかという問いは、論理をたどれば誰でも自動的に同じ結論に辿り着くような問題ではなく、それぞれの価値観や倫理観によって判断が変わる、政治性を帯びたものだ。にもかかわらず、多くの経済学者は「自由貿易はつねに正しい」という主張を疑おうとはしない。そこには、「当事者双方にとってより良い結果をもたらす」ような取り引きは「正しい」のだ、という暗黙の前提が見出せる。こうした暗黙の前提のことを、イデオロギーと呼ぶ。


つまり,

  1. 当事者双方の利益になるという点でなら自由貿易とならんで「旧植民地,奴隷制,強盗犯の三つのケース」も含まれる;
  2. しかるに飯田先生または「経済学者たち」は理由もなくこれらを除外する:これは「謎」だ;
  3. 経済学者たちは自由貿易が「正しい」というイデオロギーをもっている:これが「謎を解く鍵」だ.


──ということを論じておられるようです.


ぼくの提案を繰り返しますと,「当事者双方の利益」は (A)選択肢の比較と (B)交換前後の状態の比較を考慮した方がよく,そうすると「謎」とされている「適用範囲をわざわざ狭める理由」は (B) によって与えられるだろうということ,そして,ここでいう「正しい」は“政策として正解”と解釈するのがいいだろうということ,この2点です.

“強制や虚偽によらない自発的な交換によってそれ以前よりも状態がよくなること”を飯田先生は「自発的交換は経済厚生を促進する」といい,それをひらたく日常的な言葉に言い換えて「自由貿易は正しい」と発言しているのですから,ここにあえてイデオロギーを読み取るには及ばないでしょう.

そのうえで,しかし歴史的な経緯により生じた不公正があるのはたしかにそうでしょうから,そうした不公正は不公正として問題にするべきかと思います.

追記追記

macskaさんのエントリにお邪魔して次のようにコメントしました

 こんにちは.こちらでは「はじめまして」ですね.
 飯田先生の「自由貿易は正しい」発言が経済学的な“正しさ”を政治的なそれにすり替えている(または誤解させている)とのことですが,それは言い過ぎだと思います.
 第一に,発言の文脈からみまして,これは明らかに「自発的交換は経済厚生を促進する」(したがって貿易政策として正解である)を平たく言い換えたものです.
 第二に,経済学で「政策」を論じるということは,一定の政策目的(価値判断)プラス経済学的な事実の組み合わせで議論するということです.飯田先生の発言の場合,経済学の慣例から政策目的は“社会的厚生の向上”として定義されているととるべきでしょう.
 この2つを踏まえれば,「自由貿易は正しい」という発言が政治的な正しさへのすり替えだという解釈の余地はありません.かりに誤解する人がいたとしても,責められるべきは飯田先生でなくて誤読した読者の方でしょう.ましてその誤読を広めるような言動はつつしむべきです.
 経済学者の政策提言は“政策目的Xには政策Yが有効である”という形式になりますが,だからといって政策目的Xが無条件に正しいと押しつけるものでもありません.価値判断によって政策提言の内容が変わることが経済学の教科書に書かれているのは macskaさんもご存じのはずです.
 また,政策目的が暗黙なのがいけないという議論も場合によってはありうるでしょうけれども,そうした議論が成立するのは対案となる目的が考えられるときです.いまの例であれば,“社会的厚生の向上”にかわる貿易政策の目的をmacskaさんが提案なさるのでなければ,議論のための議論にしかならないかと存じます.
 macskaさんが懸念されているように,議論の余地がある政策目的をあたかも無条件に正しいかのように提示しているケースがあるなら,それぞれ個別に指摘していけばよいのではないでしょうか.


※返答をいただきました:http://macska.org/article/246#comment-444141

※さらに「中山」さんのご指摘があり,そのリプライを書き込みました:http://macska.org/article/246#comment-444199

> 中山さん
 こんにちは.
 経済学の知識・素養を脇においても,まさに人文的なリテラシーによって,「すり替え」や「イデオロギー」だという読み込みを“控える”または“保留する”ことはできると思うんですよ.
 と言いますのも,先のコメントで書きましたように,この発言は他でもなく日常的な表現へのラフな言い換えとして出てきているのが文脈からはっきりしていますので.
 もちろん,日常のことばに近づけたためにあいまいさがでているのは確かです.
 macskaさんは,そのあいまいさが何か暗黙のもの(「イデオロギー」)を表しているとお考えになっているのに対して,ぼくは文意があいまいなら判断を保留する方がよいという立場です.また,協調的に読めば誤解の余地はないと考えています.
 他の「ネオリベ的」経済学者のケースではどうであれ,具体的にこの発言には問題はないと思います.
 ひとまずこれがぼくの思うところです.ご指摘へのお返事になっているとよいのですが.
 最後になりましたが,たびたびお邪魔して失礼しました > macskaさん

*1:追記:当初あべこべに書いていました.混乱した方,すみません.