「応答」未満のお返事:やっぱりたんなる論理的な可能性では足りないと思います


kugyoさんから「再応答」をいただきました:

optical_frogさんへの再応答:なぜ他者の意図(意識)は常に虚構(見なし)なのか


以下,これについてお返事を.

同意できていること

kugyoさんが提示されている「実用論的汎反意図主義」をめぐって,ウェブ上で会話を続けてきました.主観的には,わりとキャッキャウフフな感じでお話しできているような気がしています.これまでの流れはkugyoさんがまとめてくださっているので,そちらを参照してください.

 まず,この「実用論的汎反意図主義」とは,ぼくなりに要約すると次のような主張です:

ある発話について,(a)その発語内の意図はつねに虚構であり,かつ,(b)誰にでも/何にでも帰属させることが可能である;(c)ただし,通常は“プラグマティックな理由”により特定の誰かに帰属される.

kugyoさんご自身の書き方ですと,次のとおり:

そうしたければ反意図主義者は、ある発話の意図を恣意的な対象に帰属させることができますし、虚構的な対象に帰属させてもかまいません

ここでいう「意図主義」 vs. 「反意図主義」については,それぞれ次のとおりです:

意図主義(文学テキスト理解における作者の意図に関する):
“作者の意図を解釈に不可欠な要素として用いよ”

反意図主義(文学テキスト理解における作者の意図に関する):
“作者の意図を解釈に不可欠な要素として用いる必要はない(用いてもよい)”

kugyoさんもぼくも,この対立においては反意図主義でおおむね同意しています.また,じっさいに発語内の意図を帰属させる場合には“プラグマティックな”条件が考慮されることも同意しています.

同意されていないこと

 さて,kugyoさんがお書きのように,争点は絞られてきました:

これまでの議論で、争点は「発話の意図は、つねに虚構のものである」という私の主張の意義の有無に絞られてきたように思います。

このエントリでは,この「意義の有無」という争点についてだけ書くことにします.

 では,そのあらましを振り返ってみましょう.

意義の有無:ただの論理的可能性では意義がないのか,そうでもないのか

 前回のエントリでは,“発話Uの意図が論理的には誰にでも/何にでも帰属しうる”のは,太陽の周りをまわるティーポットの可能性と同じく,ただの論理的な可能性にとどまるかぎりにおいて自明だから主張として意義がないと述べました.

 これに対し,kugyoさんは“意義はある”とお考えのようです.その理由は次のとおりです.

 もともと──ぼくが余計なことを言う前に──kugyoさんが書いておられたエントリ「首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する」は,アントワーヌ・コンパニョン『文学をめぐる理論と常識』で提示された主張を反駁するものでした.kugyoさんのまとめを借用しますと,以下のとおりです:

コンパニョンの主張:
「テクストが作者の意図によらないものなら、首尾一貫性や複雑さという基準に意味はない」
「発語内意図は人間にしか帰属できない」「逆に言えば、猿とか、ランダムに文字列を生成する装置とかによって生成されたテクストは、意図が帰属できないがゆえに解釈できない、意図を帰属させることは不可能だ」
(強調はoptical_frogによるもの)

こうした「帰属できない」・「解釈できない」・「不可能だ」という主張に対して反駁するには“いや,可能だ”ということを示せばよく,したがって可能性の主張にもちゃんと意義がある,というわけですね.

たんなる論理的可能性と,より限定された実際的な可能性

 でも,ここでいう「できる/できない」や「可能/不可能」には (a) たんなる論理的可能性と (b) 実際的な可能性がまざっています(といっても,べつにこういう用語があるわけではありません:ようするに可能世界をどれくらいの範囲までせばめて考慮するかというちがいです).そして, (b)実際的な可能性を反駁するのに (a)たんなる論理的な可能性を提示することは有効な反論となりません.kugyoさんが提示しておられるのは (a)です.そのため,kugyoさんの反駁は有効なものとなっていないとぼくは考えます.

 それぞれ,次のようにおおざっぱに定義しておきます:

  • 論理的な可能性:ある命題に内在的な矛盾がなく,仮説的にであれその事態の成立を考えうること.
  • 実際的な可能性:現実の条件などを考慮に入れた上で事態の成立を考えうること.


これに応じて,必然性(不可能性)についても,2つを区別します:

  • 論理的な必然性:ある命題の事態について,それが成り立たないケースが存在しないこと.
  • 実際的な必然性:論理的には ¬P が可能だが,現実には P の成立しかありえないこと.


ここで,論理的な必然性の例としては,「独身者に配偶者がいないこと」のようなものを念頭においています*1.他方,実際的な必然性の例としては,「向こう岸に行くにはこの橋を渡るしかない」といったものを念頭においています*2.たんなる(奇想天外な)論理的可能性としては「UFOがきて向こう岸に運んでくれる」といったケースも考えうるのですが,そういったことは実際的な必然性の考慮においては排除されます.

 なお,たんなる論理的可能性と実際的可能性は画然と2つに仕切られるわけではなく,限定をつける度合いに応じて連続的ではあるのですが,いままででてきた思考実験はいずれもきわめて奇想天外なものであったので,2つをはっきりわけてしまっても当面の議論に影響はしないでしょう.

コンパニョンの主張を考える

 では,この区別を踏まえ,コンパニョンの主張について2とおりのバージョンをつくってみましょう:

  • バージョン 1:論理的な必然性として,テクストの理解において参照される発語内意図が猿やキーボードのものであることはありえない;そのようなケースは論理的に存在しない.
  • バージョン 2:実際的な必然性として,テクストの理解において参照される発語内意図が猿やキーボードのものであることはありえない;しかし,論理的には可能である.


バージョン 1 に対しては,たんに論理的な可能性を指摘するだけで反駁となります:各種の思考実験などによって,どれほど奇想天外であれとにかく論理的には考えうることを指摘すればいいわけです.そして,kugyoさんは大筋でこの方向でのご批判をしておられるものとぼくは理解しています:

「コンパニョンの主張自体が論理的な可能性について述べているのですから、私の反駁もまた論理的な可能性についてさえ言えれば、それでよいのですし(…)」

 他方で,そうした奇想天外なケースの論理的な可能性を認めているバージョン 2 に対しては,そうした批判は有効ではありません.実際的な可能性として,「しかじかのケースにおいてはこのようにして作者の意図を参照せずにテクストを解釈できる」と示してあげないと反駁にならないからです.バージョン 1 は一見して間違った強すぎる主張ですから,ここはバージョン 2 を批判対象とする方が生産的かと思います.

まとめ (A):
たんなる論理的な可能性だと,やっぱり主張として意義がないのでは?

 さて,以上の議論が妥当であれば,じゃあ「実用論的汎反意図主義」をどう改訂していけばいいのかな,という話になるわけですが,ここは先を急がないことにしましょう.

 それより先に書いておかないといけないことがありますし.

ぼくがまちがった部分:存在しないこと,存在しないと推定されること

前のエントリで,ぶちまけられたペンキが「私たちはコッペパンがほしい」という文字列を描いた例について,「そもそも状況設定により発語内行為がなされていない」と書きました.kugyoさんがお書きのとおり,これはまちがいです:論理的な可能性として,誰にでも/何にでも意図を帰属させうるかぎりにおいて,存在しないという結論は得られません.kugyoさんがまとめておられるのを引用しておきましょう:

(帰属の恣意性からの帰結)
「状況設定により発語内行為がされていない」かどうか、意図が存在するかしないかは、何に意図を帰属させてもよいという前提のもとでは、確定できない。

 同様に,フランス語の練習の例についても,文を書いている「ぼく」に発語内の意図がないとしても,「ぼく」以外の誰か/何かが何らかの発語内の意図をもっている論理的な可能性は排除されません(これもkugyoさんが書かれておられるとおりです).

 つまり,こういうことですね:

(a) 話し手Sは発語内の意図をもたない & (b) S以外の誰か/何かが意図をもっている可能性がある

しかしながら,実際的な問題としては,発語内の意図をもつ誰か/何かの具体的な候補を考えられません:繰り返しですが,(b) の箇所はたんなる論理的な可能性にすぎません.このとき,「(話し手S以外の)発語内の意図は存在しないと推定される」とでもいうことができるでしょう.それを覆す証拠・理由がでてこないかぎりは存在しないと考える,という意味です.

まとめ (B):
(通常の話し手S以外に)発語内の意図をもつ誰か/何かが存在する論理的な可能性はつねにあるけれど,“プラグマティックに”その存在をみとめるだけの理由がないかぎりは,そうした誰か/何かは存在しないものと推定される.

ぼくの考え

以上,意図の帰属について,たんに論理的な可能性だけを考慮するのは有益でないという話を書きました.この主張は前回のエントリで述べたことの繰り返しで,「実用論的汎反意図主義」はいまのままのかたちでは主張として意義がないものとなってしまう,というのがその主眼です.

「実用論的汎反意図主義」に意義を認めないとして,ではどういう対案があるかと言えば,これも繰り返しですが次のような(凡庸な)考え方をぼくは採っています:

ぼくの考え (revised):

  • 基本的に文学テキストでは実在する作者の意図を考えなくてもいいけれど,通常の場合,テキストを理解するにはその虚構の語り手の意図を考えないといけない.
  • 文学にかぎらず発話全般について言うと,ごっこあそびなどのように話し手/語り手を虚構とみなせるケースもある.でも,虚構の話し手/語り手のアイデンティティが発話理解に無関係であり,実際的な水準において恣意的であってかまわないというわけではない.
  • 虚構のテキストとして受け取るかどうかを聞き手/読み手が選択する局面では,作者の意図が考慮される.


3つ目の部分は,あらたに付け足しました.

 これについて,単純化した例をなぞって具体的に述べておきます.

架空の例を考えてみる

次のようなテキスト(の一節)を例に考えてみましょう:

「俺のことならイジュメイルと呼んでくれ」

この「意味」を解釈する場合,まず,次の点は問題なくほぼ誰もが合意できるでしょう:

(a) これを発話している話し手Sは一人称でみずからを「俺」と指呼しており,その自己申告によれば「イジュメイル」という呼び名である.話し手Sは,聞き手Hが彼を「イジュメイル」と呼ぶように求めている(発語内の意図I).

この解釈 (a) は,話し手Sがどこの何者であるかを同定せずに得られます.したがって,作者Aの意図は参照せずにすみます.

 さて,このとき,話し手Sがテクストの作者Aに同定された場合と,虚構の語り手Nに同定された場合を考えてみましょう.

  • (b1) 話し手Sがテクストの作者Aに同定された場合,実在の話し手S=A=「俺」は,みずからを「イジュメイル」と呼ぶように聞き手に求めていることになり,発語内の意図IはS=Aに帰属されることとならない.
  • (b2) 話し手Sが虚構の語り手Nに同定された場合,発語内の意図Iは虚構の話し手S=N=「俺」に帰属するものの,作者Aの意図とはならない.


この2つはまったく異なる解釈です.ここで,2つの解釈のいずれかを選ぶときに作者Aの意図I2(「俺」を作者Aに同定せよ/虚構の語り手Nに同定せよ)が参照されるのかどうか,という問いが立てられるでしょう.いずれの解釈も可能ではあるのですが,具体的な解釈の場面では,一方を採って他方を採らないという選択がなされているはずです(「なされるべき」ではない点に注意してください).

 ぼくはこのb1/b2を取捨選択する局面では作者Aの意図(と聞き手により推測されるもの)が考慮されるのではないかと考えています:b1/b2のとりちがえには現実的な帰結が伴うので作者の意図が尊重される,というのがその主な理由です.しかし,kugyoさんはそうではないと考える理由をおもちかもしれません.

 いずれにせよ,こういうふうに具体例ではっきりさせておけば,「ぼくの考え (revised)」の間違っている部分・駄目な部分も指摘していただきやすいのではないかと思っています*3

*1:“分析性イコール必然性”かどうか異論の余地はあるかもしれませんが,それはここでの議論を左右しません

*2:さらに,場合によっては必然性と必要性の区別を導入するのもいいでしょう

*3:もちろん,「こ と わ る」というお返事でもOKです