字義的だけど隠喩的


(※あまりまじめにお読みにならないでくださいませ)


次の例を考えてみましょう:

「が,このたび『25ans』の仕事をきっかけに,私は再びメタファの旅に出たのであった.」
中村うさぎ『愛か,美貌か』文春文庫,2004年,p.163)


 この発話には,「メタファの旅に出た」という表現が含まれています.そして,いっけんしたところ,この発話はたんに字義的なものにすぎないと記述してよいように思われます.つまり,たしかに「旅に出る」はこの文脈において隠喩だが,そのことを明示化した「メタファの旅に出た」は字義的な発話なのであり,この二者はまったく別のものである,というように.


 しかし,そうした分類的記述によっては,この発話──もちろん「平凡な」発話です──の意味理解を説明できません.なぜなら,「メタファの旅に出た」の意味する内容を理解するためには,当該の発話文脈において「旅に出た」が隠喩的に意味するところを理解しなければならないからです.


 具体的に言えば,私たちは凡庸な読者として,次のことをこの発話の伝達内容として理解します:

(a) 「旅にでる」は,この文脈において,字義どおりに「ある場所へとむかうために移動をはじめる」ことを意味しておらず;
(b)「人格/心の成長をはじめる」とでもパラフレーズしうることを意味しており;
(c) この「旅に出る」が隠喩であることを明示化した「メタファの旅に出る」は,字義どおりに「人格/心の成長をはじめる」ことを意味する.
(d) と同時に,発話者は「旅に出る」=「人格/心の成長をはじめる」という慣習的隠喩にたいしてメタの立場に立っていることをも伝達する.


この4つのうちどれ1つとして,上述の字義的/隠喩的の分類は記述できません.少なくとも (c) だけは捉えているように思われるかもしれませんが,「メタファの旅に出る」が「人格/心の成長をはじめる」を伝達内容としていることは,これをたんに字義的に「メタファの旅に出る」と分類することからはでてこないのです.


──わーい,屁理屈オバケー