Anna Papafragou のモダリティ論文の解説


とある勉強会で用意した文章です.下記の文献の形式的な部分を解説してみました:

Anna Papafragou, Epistemic modality and truth conditions, Lingua 116(2006), pp.1688-1702
[PDF] http://papafragou.psych.udel.edu/papers/Lingua-epmodality.pdf


形式意味論に詳しい方の目からするとおかしな箇所があるかもしれません.
ご指摘いただければありがたいです (〃▽〃)



なお,この論文の主旨は「認識様相には真理条件はないと考えられてきたが,これはまちがいである」というもので,先行研究で真理条件はないことの根拠とされてきた規準を反駁しています.

Abstract
Within the linguistics literature it is often claimed that epistemic modality, unlike other kinds of modality, does not contribute to truth-conditional content. In this paper I challenge this view. I reanalyze a variety of arguments which have been used in support of the non-truth-conditional view and show that they can be handled on an alternative analysis of epistemic modality.


主観的=非真理条件的ではないという指摘は大事な気がします.


1. とりあえず,式が言わんとする趣旨だけ理解する

 Papafragou は,認識様相について,判断する人の区別を導入しています.つまり,「〜かもしれない」というときに踏まえている知識が誰のものなのかが,場合によって異なると彼女は考えるのです.そのことを論理式にしています.
 論理式そのものに当たる前に,まずはこの「踏まえている知識が誰のものなのかが異なる」という点について理解しておきましょう.

1-1. 「いろんな人の知識を踏まえる」ということ

 認識様相を判断する主体が話し手にかぎらずさまざまに異なることは,べつに珍しいことでもありません.
 たしかに,ふつうの平叙文なら,その内容を判断しているのは話し手です.しかし,疑問文では聞き手の判断を尋ねます.また,「嵐になるかもしれないと太郎は思った」というような「思う」の補文では「〜かもしれない」は太郎の判断を表しています.
 ただ,これらはどれも,あるひとりの個人的な判断です.その点で,まぎれもなく主観的です.

 では,「嵐になるかもしれないと誰もがみな思った」はどうでしょうか.
 この場合,「〜かもしれない」は特定の誰かではなくそこにいる人たち全員が一致している判断となっています.その点で,主観性は薄れています.

 さらに,こんな場合を考えます.古い校舎のドアをあけようとして,全種類で5つあるカギのうち3つを試してみたものの,どれも合わなかったとします.このとき,残り2つのうち1つを指して「これで開くかもしれない」と言ったとしましょう.この可能性は,合理的な誰もが受け入れる判断です.言い換えると,この可能性を否定するような人がいることは考えられません.その点で,客観的であると言えます.(ライオンズは,これと同じ確率的な可能性の例を挙げて客観的だと述べています:Lyons (1977: 798) を参照)
このように,誰の知識に照らしても「〜かもしれない」という可能性が認められる場合がもっとも客観的であると定義できます.逆に,話し手だけの知識に照らして認められている可能性は,もっとも主観的です.

 これが本当に彼女の主張であることを,本文からの引用で確かめておきましょう:

‘Subjective’ interpretations of epistemic modals are the limiting case where the speaker is the only member of the group and hence bases the modal claim on his or her private beliefs.
認識的法助動詞の「主観的な」解釈というのは,この集団の成員が話し手ひとりのみという極限的な場合のことで,だから彼/彼女の私秘的な信念*1 にその様相的な主張をもとづかせることになっている.
(Papafragou, 2006: 1694; 訳文引用者)

(こうしてみると,Lyons はもっとも主観的な可能性ともっとも客観的な(確率的)可能性の区別を指摘していたのだとみなせるでしょう.)

1-2. 論理式に「いろんな人の知識に照らして」を取り入れる

 照らし合わせる知識の範囲がいろいろに異なる場合があるという事実を may の意味論に取り込んだのが,Papafragou の式です.彼女の式は,Kratzer の式をちょっと変えたものです.

 2つの式をながめてみましょう:

・Kratzer …… [[may P]]c, i = 1 iff ∃w’∈fc(i): [[P]]c, = 1 *2

・Papafragou …… [[may P]]c, i = 1 iff ∀x∈Gc: ∃w’∈fx(i): [[P]]c, = 1

(※「c, i」と「c」と「c, 」は原文では上付きとなっています.以下同様.)

変っている箇所は,2点です:

(A) P式には ”∀x∈Gc” が付け足された;
(B) K式の “∃w’∈fc(i)” がP式では fc から fx に変った.


この(A)の Gc が,照らしあわされる知識の持ち主の集団 (Group) です.発話の文脈によって中身がいろいろ変わるので,c が付いています(文脈 (context) の c です).集団Gには,いろんな人が含まれます.このいろんな人を x とします.

 いま,集団Gに {Aさん, Bくん, Cちゃん} がいるとしましょう.このとき,

・Aさんの知識に照らして,「犯人はルパンかもしれない」が成り立つ;&
・Bくんの知識に照らして,「犯人はルパンかもしれない」が成り立つ;&
・Cちゃんの知識に照らして,「犯人はルパンかもしれない」が成り立つ.


というようになっていれば,ルパンが犯人である可能性をこの集団Gの全員が認めていることになります.*3

 この「集団の全員が」というところを記号にしたのが (A) の ”∀x∈Gc” です.「集団Gのメンバーである x すべて(∀x)について」と読み下します.「∈」というのは,集合のメンバーであることを表す記号です.「太郎∈G」であれば,太郎がGのメンバーであることを表します.

 変更点(B)の方は,ちょっとだけテクニカルなので,ここでは立ち入って解説しません.ただ,(A)で「 x さん」が導入されたことにあわせて,fc から fx に書き換えているのだと理解しておいてください.

 このように,Papafragou が Kratzer の式に加えた変更点は,「集団Gのひとたちの知識に照らして」を追加したところです.

1-3. 注意点:主観/客観の区別を捨てたわけではない

ここで,誤解を防止しておきましょう.Papafragou は Lyons の説を批判的に検討しているので,ともすれば Lyons の「主観的/客観的な認識様相の区別」というアイディアを棄却しているように読まれてしまう惧れがあります.しかし,そんなことはありません.そうではなく,彼女の主眼は,「ライオンズのいう主観的な認識様相にも真理条件はある」というところにあります.その是非はともかくして,主張については誤解をさけておくべきでしょう.

1-4. まとめ

では,ここまでの要点をまとめて確認しておきましょう:

・認識様相は,一定の知識に照らして命題の真偽の可能性を評価するものである.
・その知識は,誰かのものである.
・その「誰か」は,ふつう話し手なのだが,文脈によって異なりうる.
・そのような「誰か」の集団を Papafragou は Gc と表記する.
・「Gc に属す人たち全員について」を ∀x∈Gc と表記する.
・いわゆる主観的な認識様相とは,集団Gc のメンバーが話し手ひとりだけの場合のことをいう.

2. 泥縄式「可能世界意味論入門」

さて,ここからはもうちょっとテクニカルなところも含めて Papafragou や Kratzer の使っている形式的な意味論,とりわけ可能世界意味論について解説していくことにしましょう.なんといっても,彼らの論理式を理解するには,可能世界意味論について一定の知識を押さえる必要があります.とはいえ,ここで可能世界意味論にガップリ正面から取り組むわけにもいきません(それには記号論理学の初歩から始めて可能世界意味論まで積み上げていかなきゃいけませんが,そこまで書くほどの能力も元気もありませんので).そこで,とりあえず彼らの書いている式を「読み下す」ことができる程度まで,可能世界意味論をつまみ食いすることにしましょう.

2-1. 「命題Pが真である」

 まずはコレです.
 たとえば「太郎は大学生である」という文を発話すると,太郎が大学生であるという命題を断定できます.(よかったらやってみてください:「太郎は大学生である,太郎は大学生である…」,おお,太郎は大学生だと私は断定しております! 惜しむらくは,部屋でひとりブツブツ言っているのでだれも賛成してくれません.ちょっと涙が出ました.) 命題は,断定されている場合,真になるか偽になるかのどちらかです.


2-1-1. 真理値と真理条件

命題が真か偽かという値を真理値と言います.ごく大雑把に言うと,真偽は,命題内容と世の中のあり方とが一致しているかどうかによって定まります.一致していないときには命題が偽となります.「いや,世の中が間違っている」とか言っちゃいけません(私はよく言っていますが).この一致の条件を真理条件と言います.
たとえば,「タマが炬燵にいる」という文(命題)が真であるなら,タマは炬燵にいます.また,タマが炬燵にいるなら,「タマが炬燵にいる」は真です.

・「タマが炬燵にいる」が真 ならば→ タマが炬燵にいる[必要条件]

・タマが炬燵にいる[十分条件] ならば→ 「タマが炬燵にいる」が真


つまり,この命題が真であることの必要にして十分な条件はタマが炬燵にいることであり,これを真理条件と言うわけです.

【定義】

  1. 真理値 (truth value) とは,ある命題の真偽のことである.慣習的に,真は T または 1 で,偽は F または 0 であらわす.
  2. 真理条件 (truth condition) とは,ある命題が実際に真であるときに世界がどのようなあり方をしているかを規定する条件のことである.真理条件は,命題が真である場合の必要にして十分な条件を規定する.

ex. たとえば,日本語の言明「いま雨が降っている」が真であるときには,実際に雨が降っている.このとき,雨が降っていて・かつ・カエルが鳴いていても言明は真となるけれども,カエルが鳴いていることはこの言明の真偽を左右していないので,その真理条件には必要でない.このように,この言明が真であるのは,じっさいに雨が降っているときであり,そしてそのときだけにかぎられる.


2-1-1-1. 検証条件と真理条件は別物!

ここで絶対に避けておくべき誤解がひとつあります:真理条件を知っているということは,真偽を判定する検証方法を知っていることと別物です.
ある言明が真であるときと偽であるときで,見たり触れたりできるような経験的ちがいがあるとき,そうした経験をまとめて「検証条件」と呼びます.たとえば,「この花は赤い」は目に見える色の経験で検証されます.これに対して,「神サマが存在する」は経験的に検証できません.検証条件がない文は無意味だとする説が,検証主義 verificationism です.検証主義は,1930−40年代を中心に栄えた論理実証主義 logical positivism で主張されました.いまでは完全に歴史のエピソードと化しています.
こうした検証条件は,真理条件と異なります.たとえば,「πを小数に展開すると,すべての数字が均等に出てくる」という言明の真理条件は明らかですが,検証する方法はありません:小数展開が果てしなく続くからです.真理条件は,言明がじっさいに真であるときの条件です.これに対して,検証条件は言明が真だと示す証拠に関わります.いまの例では,真理条件はハッキリしているけれども,この言明が真だと示す証拠は提示しようがなく,検証条件が不明なのです.


2-1-2. 記号表記:二重カッコと iff

 さて,命題「太郎は大学生である」が真なのは,太郎が大学生であるときです.
 アゴがはずれるほど単純ですね.
 これをちょっとだけ記号を使って表記すると,こうなります:

[[太郎は大学生である]] = 1 iff 太郎が大学生である


 ここで導入した新しい表現は2つあります:二重カッコ [[ ]] と,“iff” です.
 まず,[[ ]] という二重カッコは,「カッコの中の言語表現が表すもの(denotation, 明示・表示)」を表します(正式な記号は二重カッコと少しカタチがちがうのですが).

 文の場合,それは真理値となります.*4

 「な,なんだって――? この文は太郎が大学生だっていう事態を表しているんじゃないの?」という疑問が浮かぶかもしれません.

 もっともな疑問です.

 いろいろ難しいところはありますが,ひとまずこう答えましょう.

1.まず,この文において,太郎が大学生であるという事態が指示されているというのは正しい直観です.しかし,事態は文全体が表示するものではないというのが形式意味論での基本的な方針です(このへん,突っこむと面倒です).

2.ここで,さっきの定義を思い出してください.ある命題が真であるのは,じっさいにしかじかの事態が成り立っているときです.この場合,その事態とは太郎が大学生であることです.命題と世界のあり方とを区別すると,事態は後者にあたります.このときには,命題の真偽が世界のあり方=事態によって異なります.命題が事態を参照しているという直観が正しいのは,この点に関してです.

3.次に,「独身者に配偶者はいない」という文の真偽を考えてみましょう.これは,世界のあり方によって偽となる場合があるでしょうか.あったら大変です.この命題は,世界のあり方に関係なく,つねに真です.つまり,この文においては,世界のあり方/事態は指示=参照されていないのです.

4.すると,世界内の事態が指示されている文にもそうでない文にも,真理値はあることになります.


ともあれ,文=命題が明示するものは真理値であり,

[[太郎は大学生である]] = 1


という表記は,文「太郎が大学生である」が明示するもの(真理値)は1(真)である,ということを表しているわけです.

 もうひとつの新しい表現 iff は,英語の ”if and only if” を省略したものです.「〜という場合に,そしてその場合にのみ」などと訳され,必要十分条件を表します.真理条件とは命題が真であることの必要十分条件だというさきほどの定義を思い出してください.


2-1-3. T文:真理条件を定義する

以上をふまえると,

[[太郎は大学生である]] = 1 iff 太郎が大学生である


という表記は,

「『太郎は大学生である』という文が明示するもの(真理値)が1であるのは,太郎が大学生であるとき,そしてそのときだけに限られる」


と読み下せます.このような,「[[文]] = 1 iff なんたらかんたら」という表記を,「T文 (T-sentence)」と言います*5.T文は,文の真理条件を定義するものです.左辺と右辺に同じ「太郎は大学生である」が現れていますが,左辺のは言語表現を,右辺のは事態を表していますので,混同しないでください.同語反復とはちがいます.


2-1-4. わき道に脱線:意味の分析

ところで,Papafragou の式をみると,iff の後ろには,ふつうの文章ではなくってヘンな記号が続いています.

[[may P]]c, i = 1 iff ∀x∈Gc: ∃w’∈fx(i): [[P]]c, = 1


どうして,たとえば “may P” の真理条件を

[[may P]] = 1 iff may P


というように書かないのでしょうか.

 理由は,分析ということに関わります.

 私たち言語屋は自然言語の意味を分析します.分析するというのは,あるものをいろんな要因やその要因どうしの組み合わせに分けてみることです.時計をみて「ああ時計だな」と思うんじゃなくて,その時計をバラバラに分解して,針とか歯車とかコードとかを取り出し,その部品の役割やお互いのつながり方をみるのが分析です.そうやって分析してやれば,時計の仕組みがよくわかるわけです.反対に,分解したものをもう一度ひとつに組み直すのを総合と言います.分解した時計を組み直してみてもうまく動かない場合は,組み立てをどこか間違っているはずです.それと同じように,分析したものを総合してみて事実に合致しないところがあれば,理論のどこかが間違っていると考えられます.
さて,「ナントカかもしれない」という言語表現は,もちろん,ナントカかもしれないということを意味します.ですから,もし「ナントカかもしれない」がナントカかもしれないという真理条件をもっているのであるなら,これをT文にして右辺に《iff ナントカかもしれない》と書いてもマチガイではないわけです.

 けれども,その意味を成り立たせているいろんな要因を取り出さないと,意味がよくわかったとは言えません.

 「いや,そんなことはない.英語ならともかく,自分は生まれてからずっと日本語で育っているから,わざわざ分析なんかしなくたって「ナントカかもしれない」という日本語表現の意味はよく知っている」という言い分があるかもしれません.

 でも,それは,「知っている」ということについて本稿が言いたいこととかみ合っていません.わざわざ分析しなくても日本語の表現を知っているというのは,それを自由自在に使える,使い方を知っている,ということです.そして,その知り方は意識的ではなくて無意識的です.たとえば第二言語として日本語を勉強している人に,《「〜かもしれない」とはどんな意味で「〜うる」とはどうちがうの?》と質問されても,意識的には知らないので,たいていの日本語話者はあらためてコトバにして伝えることがうまくできません.

 日本語話者は,日本語の表現について意味を無意識に知っています.この無意識の知識について意識的に知ることが,私たち言語屋の課題です.そのためには,意味の分析が必要となるのです.

 もともとの may P にもどれば,だからこそT文の右辺を “iff may P” で済ませるのではなく,それをさらにいろんな要因に分解・再構成していくわけです.

 そのようにして分析されたものが,Papafragou の場合,

iff ∀x∈Gc: ∃w’∈fx(i): [[P]]c, = 1


というようにまとめられています.このとき,一定の決まりごとにしたがって論理的な記号を使っているのが,多くの人にとって式を理解しづらくしている理由でしょう.けれども,こうした表現はわざわざ分かりにくくするために使っているのではなくて,決まりごとさえ踏まえればものごとをとても簡潔に分かりやすく述べることができるから使っているわけです.*6

 ある言語について,場当たりでなく体系的に真理条件(のT文)を導き出す意味論を構築するのが,真理条件意味論 (truth-conditional semantics) の目標です.体系的にやるには論理学の形式的な方法を使うととっても便利なので,たいていの真理条件意味論の仕事は,同時に形式意味論ともなっています.つまり,T文の右辺を書くのに使うメタ言語として形式的な言語を採用するわけです.

2-2. 「文脈に応じて,命題Pは真である」:指標のはなし

Papafragou たちが書いている式には,こんな表現が含まれていました:

[[P]]c, = 1


パッとみて,「Pという文の真理値が1である」という趣旨はわかりますね.

 問題は,[[P]] にくっついている c, という記号です.

 この記号のうち,最初の c は命題Pを文脈に相対化する文脈の指標 (contextual index) を,また, の順序対*7 は値踏みの指標 (index of evaluation) を,それぞれ表しています.文脈の指標とは文を発話した文脈に応じて命題内容を特定するための情報で,値踏みの指標とはその命題内容を値踏みするための情報(いつ・どの世界について真偽が評価されるのかを示す情報)です.


2-2-1. 指標的な表現と,時間・場所・話し手の文脈指標

日本語や英語には,時制や時間副詞があります.

  • 今日,太郎は欠席している.
  • 昨日,太郎は欠席していた.

John is absent today.
John was absent yesterday.


こうした表現を理解するには,「昨日」・「今日」・「いる」・「いた」の基準となる時間を知らなければいけません.ふつうは,発話しているときを基準にします.たとえば,発話しているのが11/4なら「昨日」とは11/3のことです.「欠席していた」は,発話の時点より以前の期間において太郎の欠席が起きていることを表しています.

 同じように,「ここ」・「あちら」・「私」・「あなた」といった指標的表現も,発話の文脈(指標)を参照して,理解されます.

 こんなふうに文脈指標と相対的に意味が定まる言語表現を,指標的 (indexical) または直示的 (deictic) と言います.自然言語はたいてい指標に相対的で,いつ・どこで・だれが発話したのかによってその意味が異なります.これは,すべての言語学者・意味論者が同意する観察でしょう.

 一般に,文脈の指標 c に相対的な言語表現 E の表示を

[[E]]c


と表記します.

 たとえば,「わたし」という人称代名詞が表示する人物は,話し手です.よって,話し手が山田太郎であれば,

[[わたし]]c = 山田太郎


となります.

 では,具体的な文の発話を考えてみましょう:

「わたしは 去年 ここで あなたに殴られた」(泣)


ここで,2とおりの文脈指標を用意してみます.

  • 指標c1:話し手=山田太郎,聞き手=ジョン・スミス,発話の時間=2008.1.10,発話の場所=秋葉原
  • 指標c2:話し手=ジョン・スミス,聞き手=山田太郎,発話の時間=1998.1.10,発話の場所=日本橋


このとき,さきほどの文がそれぞれの指標でどのように解釈されるか,考えます:


すると,この文の真理条件は,文脈指標に相対的にこう記述できます:

[[わたしは 去年 ここで あなたに殴られた]]c1 = 1
iff 山田太郎が 2008年に 秋葉原で ジョン・スミスに 殴られた

[[わたしは 去年 ここで あなたに殴られた]]c2 = 1
iff ジョン・スミスが 1998年に日本橋山田太郎に 殴られた


──というわけで,まとめると,

[[P]]c = 1


という記号は,「Pの真理値は文脈c において1である」を意味しています.

 代表的な文脈指標には,話し手・聞き手・時間・場所・世界があります.しかし,これ以外にも非常に多くの指標が自然言語の理解には必要とされます(たとえば「この時刻」が具体的に指示する時刻の数字は,時間帯 (time-zone) によって異なります:ライカン (1999=2005: 訳書234) を参照のこと).このため,意味理論が文脈指標をすべて用意しておくのは不可能と考えられます.

2-3. 値踏みの指標:「可能世界」を導入する

 次に,値踏みの指標 について解説します.これは,問題にしている命題がどの可能世界で・いつ真偽を評価されるのかを表す指標です.

 いきなり「可能世界」などという,なんだかアヤシイ単語が出てきましたが,可能世界というのはたんなるモデルだと考えてください.どんなモデルかというと,いろんな物事のあり方をひとまとめにしたもののモデルです.

 どういうことでしょうか.

 たとえば,P:タマが炬燵にいる/いない,Q:炬燵のスイッチが入っている/いないという2つの事柄だけについて考えてみると,次の4通りの「世界」が得られます:

世界w1 P:1 Q:1
世界w2 P:1 Q:0
世界w3 P:0 Q:1
世界w4 P:0 Q:0


もちろん,物事はタマと炬燵につきるわけではなく,無数の事態がひとつの世界には含まれています(そもそもタマがいない世界だって考えられますね).そうした無数の事態について上のような相違が考えられます.とすると,無数の事態の相違に応じて無数の可能世界が考えられるわけです.そんな可能世界が,SFの並行宇宙のように存在しているかどうかは,私たち言語屋の関心事ではありません.ただ,自然言語の意味を記述するときに可能世界を使うととてもうまくいくケースがよくあるのです.*8

 さて,「タマが炬燵にいる」という命題を考えてみましょう.同じ命題でも,真偽を値踏みする世界によって,真偽は異なります.つまり,

[[タマが炬燵にいる]]c, w1 = 1
[[タマが炬燵にいる]]c, w3 = 0

というようなちがいがでてくるわけです.

 同じことは,時点 t についてもあてはまります.上の可能世界 wn を時点 tn に置き換えて,そのことを確認してください.

 これら世界と時点とを組み合わせれば, となります.

 すると,問題の記号表現

[[P]]c, = 1


は,次のように読み下すことができます:

「文脈 c において解釈された命題 P は,世界 w’ と時点 ti について値踏みされたとき,真理値が1である」


 ところで,may P で P の値踏みに使われている世界 w’ とは,どんな世界なのでしょうか.どんな世界でもいいのでしょうか,それとも,なにか制限があるのでしょうか.

 もちろん,制限はあります.そして,論理式のまだ解説していない残りの部分はまさにこの制限に関係しています.

2-4. 会話背景:「xさんが知っていることと両立する世界の集合」

ここまでで「命題」・「文脈指標」・「評価指標」についてひととおり見てきました.私たちが理解しようとしている論理式をもう一度ながめてみましょう:

[[may P]]c, i = 1 iff ∀x∈Gc: ∃w’∈fx(i): [[P]]c, = 1


まだ解説していないのは,

∃w’∈fx(i)


という部分です.これは,w’ という記号を含んでいることから覗われるように,値踏みの世界について制限を述べています.どんな制限なのか,解説しましょう.

 この記号表記は,「fx (i) には w’ が少なくともひとつ含まれる」と読み下されます.「∃」は存在量化子といい,「少なくともひとつの」を意味します.そして,w’ とは命題Pが真となるような世界でした.そうすると,

∃w’∈fx(i): [[P]]c, = 1

をひとまとまりにして読み下すと,

「文脈cで解釈された命題Pが真となるような世界 w’ が少なくともひとつ,fx(i) に含まれている」


ということになります.

 この fx(i) は,次のように定義されています:

“fx delivers the set of worlds compatible with what x knows”
関数 fx は,xが知っていることと両立する世界の集合を与える
(Papafragou [2006: 1694];訳文引用者)


ここでいう x とは,集団Gc のメンバーのことです.「x が知っていることと両立する」というのは,矛盾しないということです.たとえば,x が「タマが炬燵にいる」ということを知っているとして,次の2つの可能世界がこの知識Qと両立するかどうかを考えてみましょう:

w1:タマが眠っている
w2:タマが庭にいる


すぐわかるように,w1 はQと矛盾せず,両立します(タマは炬燵で眠っているわけですね);他方,w2 はQと矛盾していて,両立しません(ただし炬燵は室内にあるとします).このとき,xさんはタマが眠っているかどうかを知らないのですが,しかしタマが眠っている可能性があること(とタマが庭にいる可能性がないこと)は知っていると言っていいでしょう.このようなチェックを集団Gのメンバー全員についてやってみれば,Gの知っていることに照らして may P が成り立つかどうかを確かめられます.

 このような可能世界の集合を,会話背景 (conversational background) と呼びます.つまり,Pの値踏みに使われる可能世界 w’ には,「会話背景に含まれている」という制限があったわけです.ようするに,w’ とは,会話背景に含まれていて,しかもPが真となるような可能世界のことです.Papafragou の式にしたがえば,そんな w’ が少なくともひとつあれば may P は真となります.

「x が知っていることと両立する」可能世界のうち,Pが真であるような世界が会話背景に少なくともひとつある,というのが,「認識的な可能性がある」ということに対応します.もし,そのような世界がひとつもないのであれば,それはつまり「可能性がない」ということです.会話背景の全ての可能世界でPが真であるなら,Pには認識的な必然性があると言えます.


3. あらためて論理式を読み下す

では,ここまでに解説したことを踏まえて,Papafragou の論理式を読み下してみましょう.

[[may P]]c, i = 1 iff ∀x∈Gc: ∃w’∈fx(i): [[P]]c, = 1
= 文脈c で解釈されたmay P が評価指標 i のもとで真となるのは,次の場合に限られる.すなわち,集団 Gc のメンバー x 全員について,x が知っていることと両立する可能世界 w’ と時点 ti において P が真となる,そのような w’ が少なくともひとつ存在するときである.


──とまあ,このとおりです.記号の取り決めや基本概念さえおさえてしまえば,とりたてて難しいものではありません.(しかし,こんな単純なアイディアでも,式を使わずに述べようとすればこの読み下し文のように冗漫になってしまうわけです.)

 最後に言い添えますと,おそらくこの論理式には誤植があります.

 指標 i は世界 w’ と時点 ti のペアだと Papafragou は言うのですが,それでは may P と P がともに同じ指標で評価されることになってしまいます.もちろん,そんなハズはありません.前者 may P は発話の文脈となっている世界と時点で評価されますが,後者P の方はそれとは別の可能世界 w’ で評価されます.したがって,指標 i は世界 w’ と時点 ti とは別のペア,たとえば とでも定義しておく必要があります.

References

  • Fauconnier, Gilles 1994. Mental Spaces (2nd ed.). Cambridge UP.
  • Grice, Paul 1989. Studies in the Way of Words. Harvard UP.
  • Hale, Bob & Crispin Wright (eds.) 1997. A Companion to the Philosophy of Language. Blackwell.
  • 石崎雅人 & 伝康晴 2001.『談話と対話』.東京大学出版会
  • Joos, M. 1964=1968. The English Verb: Form and Meanings (2nd ed.). Wisconsin UP.
  • Kaufmann, Stephan & Cleo Condoravdi 2006. “Formal approaches to modality”, in Wolfgang Klein & Stephen Levinson (eds.), The Expression of Cognitive Categories, pp.71-106. Mouton de Gruyter.
  • Kratzer, Angelica 1991. “Modality”, in Arnim von Stechow & Dieter Wunderlich (eds.), Semantics: An International Handbook of Contemporary Research, pp. 639-650. Walter de Gruyter.
  • Lakoff, George 1987=1993.『認知意味論:言語から見た人間の心』.紀伊国屋書店.(原書:Women, Fire, and Dangerous Things, Chicago UP.)
  • Lycan, W.G. 1999=2005.『言語哲学:入門から中級まで』.勁草書房.(原書:Philosophy of Language: A Contemporary Introduction, Routledge.)
  • Lyons, John 1977. Semantics (vol.2). Cambridge UP.
  • 野矢茂樹 1999.『哲学・航海日誌』.春秋社.
  • Perry, John 1997. “Indexicals and demonstratives”, Hale & Wright (1997), pp. 586-612.
  • Stalnaker, Robert 1970=1999. “Pragmatics”, Context and Content. Oxford UP.
  • ──── 2002. “Common Ground”, Linguistics and Philosophy 25: pp.701-721. Kluwer Academic.
  • 戸田山和久 2006.「何でこんなヘンテコな記号を覚えなくちゃいけないんですか?──論理学(教育)と人工言語」,『言語』2006年11月号.
  • Wiggins, David 1997. “Meaning and truth conditions: from Frege’s grand design to Davidson’s”, in Hale & Wright (1997), pp. 3-28.

*1:この「私秘的 (private)」というコトバには,あまりなじみがないかもしれません.話し手だけがその事態を確認できて,他人にはうかがい知れないことをそう言います.私たち言語屋にとっては,「私(秘)的動詞 (private verb)」と「公(開)的動詞 (public verb)」の区別がいちばん身近なところでしょうか.

*2:Papafragou はこの式を Kratzer (1991) に帰しているのですが,同文献にこのとおりの式は出てきていないようです(会話背景 f については p. 641 で解説されていますが).

*3:話の本筋には関係ありませんが,「いったい,{Aさん, Bくん, Cちゃん} の知識が踏まえられるような場合なんてあるのか?」という疑問が浮かぶ方もおられることでしょう.もしそうなら,こんな場面を考えてください.銭型警部がこの3人に聞き込みをしているとします.代表して質問に答えているのは Aさんだとしましょう.Aさんは,3人全員が知っていることを踏まえて質問に答えます.銭型警部が「そうすると犯人はルパンということになりますな!」と言ったのを受けて,「ええ,犯人はルパンかもしれませんわね」と答えたとき,「かもしれない」が参照している知識は3人の共有知識になります.(厳密にはこれも突っ込みどころがあります:それも結局「3人の共有知識だとAさんがみなしている知識」にすぎないじゃないか,と批判できそうです.こういうことに関心がある方は,手始めに次の文献を参照するといいでしょう:石崎&伝(2001: §3.3.2相互信念),Stalnaker (2002: esp.§2 Common Belief),野矢(1999: Ch.29 グライスのパラドクス),Grice (1989: 97-8).)

*4:ところが,文の明示するもの=「その文が真となる可能世界の集合」と定義することもあります.このへん混乱を招きかねないところですが,ひとまずここでは本文の定義だけを踏まえてください.

*5:または「タルスキの双条件文」ともいいます.

*6:とは言ってみましたが,それでも多くの人にとって記号表記がなじみにくいのは確かでしょう.なぜ記号を使うのか? この点について戸田山 (2006) がよい文章となっています.

*7:順序対 (ordered pair) とか順序n組 (ordered n-tuple) というのは,要素どうしになんらかの順序関係がある集合のことで, などと表記します.順序を考えない集合は {a,b,c} と表記します.いま,{のぞみ, かなえ, たまえ} という3人の集合があるとしましょう.この3人が一列に並ぶとして,<のぞみ, かなえ, たまえ> と <たまえ, のぞみ, かなえ> とではまったく並び方が異なります.

*8:このように文の意味論に指標を取り込んだものを内包論理 (intensional logic) といいます.モンタギュー文法は,自然言語の意味論に内包論理を用いる試みでした.