「知っている」の否定は?
(2008-08-27updated)
この数日,アスペクトの解説を訳していますが,それに関連することを少し書きます.
ある本を訳していたときハタと気づいたことで,自分にはうまく説明できないでいるパズルがあります.
たとえば次のセンテンスを訳すとしましょう:
I know him.
これを日本語に訳すと,
「彼なら知ってますよ.」
ぐらいになります(もうちょっと直訳調ですと,「私は彼を知っています」でしょうか).
下記のような訳は不自然です:
- #彼なら知りますよ.
- #私は彼を知ります.
ここまでは,英語の know と日本語の「知る」の意味の違いで説明できます.
つまり,英語の know はあることの知識がある状態を表すのに対して,日本語の「知る」はそういう状態に移行することを表すというちがいがあるからです:たとえていうと,「知識なし」から「知識あり」にカードがうらがえるのが「知る」の意味です.そうやって「知識あり」に変化した結果を,日本語では「知っている」であらわします.
know を訳すと「知っている」になるのはそういう理由があるためです.*1
さて,ここでひとつ不思議なことがあります.
know は「知っている」に対応するのですが,don't know は「#知っていない」にならず「知らない」になるのです.
同じように状態の移行をあらわす「(お湯が)沸く」と比べてみると,この意外さがもう少しはっきりします:「お湯が沸いている」の否定は「お湯が沸いていない」であって「#お湯が沸かない」ではありません.
同様に,他の動詞も「-ている」の否定は「-ていない」となるようです:
- a. 到着する : 到着している :: 到着しない : 到着していない
- b. わかる : わかっている :: わからない : わかっていない
- c. おちる : おちている :: おちない : おちていない
こうしてみると,「知っている」が移行の結果をあらわすなら,これに否定辞の「ない」をつけて「知っていない」にできてよさそうなものですが,そうなっていません.
日本語学の研究をしっかりみているわけではないので既になんらかの説明があるのかもしれませんが,これはぼくにとってちょっとしたパズルです.
以上,だれかがぼくの無知をただしてくれるとありがたいなぁと思いつつ,エントリをあげてみました──ええ,だれかが.*2
2008-08-27追記
このエントリをあげてから,いくつかご教示を頂きました.ありがとうございます.
まず,「はてなブックマーク」のコメントでは参照すべき文献を教えていただきました:
- id:kuzanさんから:久野すすむ*3『新日本文法研究』(第7章「『知ラナイ』と『知ッテイナイ』」)
- id:asaokitanさんから:大浦真 (2001) 「瞬間動詞「知る」の振舞」『京都大学言語学研究』21号.
前者はすっかり失念しており,後者は未読でした.
次に,id:dlitさんからは下記のトラックバックをいただきました:
次のように問いを切り分けるべきとのご指摘はまさにそのとおりですね(←という後知恵 orz):
「知る」に関しては実際には問題を二つに分けられると思います。
- なぜ「知らない」が「知っている」の否定を表せるのか
- なぜ「知っていない」が「知っている」の否定を表せないのか
また,オンライン上のページではすでに次の2つでこの疑問が取り上げられていました:
- 「知っている」の否定形は、どうして「知らない」になるのでしょう? - 教えて!goo*4
- 「知らない」と「知っていない」 - Oyanagiの勉強部屋 掲示板
とくに後者のページでは久野の前掲書を引きつつ活発な議論が交わされていて有益でした.
以上,簡略ですが,直接・間接にご教示くださったみなさんに感謝します.
/追記おわり
*1:ただし,場合によっては know が「知る」に対応することもあります:たとえば Rage Against The Machine の曲名やフランク・キャプラの映画のタイトルとなっている "Know Your Enemy" は──おそらく孫子の直訳だと思うのですが──「己の敵を知れ」という意味で,状態の移行をあらわしています.デフォルトでは状態をあらわす動詞も,しばしば命令文では状態の移行に解釈されます.そうでないと適切な命令文にはなりません.
*2:2008-08-27追記:意中の「だれか」にはふられました
*3:「すすむ」は「日」に「章」と書きます.
*4:id:tonocchiさんの「state verb」経由