スティーブン・ピンカー「言語戦争のニセ戦線」(part 3/3)


Part 2 からの続き.

アメリカン・ヘリティッジ』は,アコセラの言いたいことに都合よくはまってくれない.彼女はこれを「恥知らずなまでに規範的」と称する.だけど,この形容はアメリカン・ヘリティッジならではの特徴と矛盾している――同辞典は,用法審議会の投票結果レポートを公表して読者が自分に合ったように利用できるようにしている.アコセラがとくに困惑を表明しているのは,辞書の巻頭にある2本のエッセイだ.1本の執筆者は言語学者ジョン・リックフォードで,彼はカリブ・クレオール諸言語の研究者だ.もう1本の執筆者はぼく.


リックフォードはこう記している.「言語学習と言語使用は,体系的な規則と制限なしには実質的に不可能だ.この一般化は,あらゆる言語の変種に当てはまる.俗語も例外ではない」 これこそ規範主義でしょう――疑問の余地はありませんよ.


疑問の余地はない? 一級の馬鹿話だ.リックフォードを知る人や彼のエッセイを理解している人ならちゃんとわかるし,彼の題名(「生きている言語の変異と変化」)を一読するだけでもわかることだ.リックフォードは『ニューヨーカー』に抗議して,じぶんが言う規則と制限というのは記述的なものであって規範的なものではないと伝えた.でも,同誌は訂正の公表を拒否した.


アコセラは,続いてぼくのエッセイに話を移す:

[ピンカーは]だいたいこれと反対のことを述べている.規則なんてものはない,そう彼は述べる.あるいは,規則はあるとしても,婆さんたちの昔話にすぎない――ピンカーの言い方を引けば,"bubbe-meises" だ〔イディッシュ語でいう「婆さんたちの昔話」〕.このイディッシュ語を使っているのは,おそらく,じぶんがいかにいいやつかを示すためなのだろう.規則とされるものにあくまで従うことを主張する人々は,事実上,「その信仰をもたない人々を侮辱しているのであり,その点で自分の方が先に告発されるのではないかという恐れから魔女や階級の敵や共産主義者を告発する群衆と同じようなもの」だと彼は言う.つまり,規範主義者たちは魔女狩りの徒であり,赤狩り屋だというわけだ.


この「いい人」の当てこすりは,おなじみの階級闘争の物語につづく.ここでは,記述主義者にとってのイディッシュ主義はファウラーのローストビーフやホワイトのパイプとスリッパに相当するものになっている.でも,彼女の言う「おそらくは」という文句は,不誠実だ:エッセイで説明してあるように,ぼくはこの言葉を導入するときに,これは「ウィリアム・サファイアに敬意を示す言葉だ.彼はみずからを言語通と称した.イディッシュ語で「専門家」という意味だ」 どちらにせよ,非難の本筋を追っていくと,相変わらずアコセラが言語学をめちゃくちゃに理解していることがわかる.規則なんてものはないとか規則はデタラメだと言い放つどころか,このエッセイはその真逆の前提から書き起こされている.エッセイの冒頭はこう書かれている:

辞書で単語を引くとき,人が見つけ出すのはどんな種類の事実だろう? 事実なことは間違いない.たとえば misunderestimated なんて単語がないことも,現代ギリシャの市民が Greeks であって Grecians でないのも,不和分裂をはかる政策が社会を「分断する」のは balkanize であって vulcanize ではないのも,意見の問題ではない.


このエッセイの眼目は,規範的規則がどのように生じ,デタラメ規則と擁護可能な規則とをどう区別できるかを検討することにあった.デタラメ規則をうむ1つの原因は,「集団の無知」(pluralistic ignorance) だとそこでは示唆してある.これは,たとえば書き手の誰一人として分裂不定詞が本当に非文法的だとは信じていないにも関わらず誰もが他のみんなはそう信じていると信じているような状況をいう.ちょうど魔女狩り赤狩りその他の太守的な妄想がそうだったように,しくじったときには酷くとがめられると人々が恐れているときにはこの集団の無知は定着することがあるということを示す研究を,エッセイで紹介している.アコセラは類推によって勘違いし,「規範主義は魔女狩りの徒,赤狩り屋」だという「明白な政治的意味」を幻視してしまっている.(のちにぼくが『ニューヨーカー』に送った手紙で記したように,これは地球温暖化の説明を読んで猛然と温室の擁護に乗り出すようなものだ.) さらに,アコセラは同辞書の編者たちに知的な一貫性がないのではないかと疑いを差し挟んで,リックフォードのものといっしょにぼくのエッセイを掲載するのは「まったくの自家撞着」であり「これを掲載するのは,エリート主義の批判を避けるためのもので,卑劣」だと言う.


サタデーナイト・ライブでエミリー・リテラが自然の競走馬を保存し絶滅危惧「屎」(feces)*1 の保護に反対して大声を上げて以来,論争家がじぶんの誤解でここまで勝手にいきり立つのも珍しい.


こうした有様をみるにつけ,当然ながら疑問が浮かぶ:『ニューヨーカー』誌はいったいどうなってるんだろう? 事実確認に細心の注意を払うことで名声を築いてきた雑誌が,いったいどうしてこんなに大間違いとつじつまのない話と空想的な言いがかり満載の戯言を掲載してしまえたんだろう? この原稿には,編集者と大いに共鳴するところがあって,そのせいで通してしまうことになったにちがいない.でも,それは何だろう?


一つの仮説はこうだ.形式的な正しさと自己流のスタイルにこだわりがある――業界でもいちばん風変わりで cooperation や reelect の母音に分音記号をつけたりする〔e.g. coöperate〕――『ニューヨーカー』のような雑誌は,用法の問題と基準の維持にとくに敏感にならざるをえないのではないか.でも,他にも仮説はある.『ニューヨーカー』による「言語戦争」の取り上げ方が鈍感なのは,同誌が科学に関して抱えている問題の徴候なんじゃないだろうか.


1962年に,マクドナルドは繰り返しウェブスターの第3版が「科学的」になりたがっている姿勢をあざ笑った.たとえば,ウェブスターが計量化を採用したり,事実と価値を区別したり,さらには,現代言語学の理論的な道具を用いたりしたことが科学願望とされた.「いったいどんなガイガーカウンターを使えば,教育や教養のある人物を判断できるというのか」と彼は問いただした.それから50年たって,ポケットプロテクターを使うような理系オタク*2への恐れは,理論武装を遂げている:アコセラは記述主義者たちがポストモダン主義者の教義を鵜呑みにせず*3,「客観性などというものはない:すべての言明は主観的かつ一面的でバイアスと隠れたメッセージに満ちている」ということを認めようとしないととがめる.少なくとも規範主義者たちは「特定の視点をとっていることを認めている」点で包み隠さず誠実ではあるらしい.


こうしてみると,『ニューヨーカー』の科学に対する態度とのつながりがわかる.同誌の態度は,「ポストモダン主義軽量版」とでも呼べるだろう.環境保護論者と医者をのぞいて,科学者というのは厳密な理論と実証的な発見によって世界の理解を進歩させていくというヘンテコな信条をもった部族だと考えがちなところがある.実際,科学者もまた権力をめぐって争う分派をなしていると同誌は好んでほのめかす.科学は次々にパラダイムをとりかえる.これまでずっとそうだったし,ジャーナリストにできることは――創造論者たちの言うように――論争があると教えることだけだ,とね.こうして,規範主義者と記述主義者が50年にわたって理論の明確化も理解の進歩もなく闘っているとされる並行宇宙ができあがる.もちろん,それぞれの陣営が独自の階級闘争を闘っているのは言うまでもないってわけだ.

*1:絶滅危惧「種」(species) というべきところを feces(糞便)と言ってしまった.

*2:the pocket-protected.オタクがポケットにペンを挿すためのポケットプロテクタを使うことから,理系オタのことをこう呼んでいるらしい(参考).

*3:原文は "not drinking the postmoderninst Kool-Aid".クールエイドは甘味飲料.人民寺院集団自殺では青酸カリ入りのクールエイドを信者に飲ませた.カルト的な教義を受け入れるという意味で「クールエイドを飲む」と言っている.(参考:http://www.innovateus.net/innopedia/what-does-metaphor-drink-kool-aid-mean