メモ:マイケル・トマセロ『我々が協調する理由は』(Why We Cooperate)


メモですよメモ.なぜか序文も訳してありますけど,メモですよ.


Why We Cooperate (Boston Review Books)

Why We Cooperate (Boston Review Books)

  • 作者: Michael Tomasello,Carol Dweck,Joan Silk,Brian Skyrms,Elizabeth S. Spelke,Deborah Chasman
  • 出版社/メーカー: The MIT Press
  • 発売日: 2009/08/28
  • メディア: ハードカバー
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本書はマイケル・トマセロのタナー講義(スタンフォード,2008年)をもとにしてあり,第1部が講義録,第2部が関連する研究者らによるコメントとなっています.

議論の主題については,トマセロ本人が「序文」で述べてくれているので,そちらを参照してください.

目次

Introduction
Part I Why We Cooperate
  • 1 Born (and Bred) to Help
    • Helping
    • Informing
    • Sharing
    • Reciprocity and Norms
  • 2 From Social Interaction to Social Institution
    • Coordination and Communication
    • Tolerance and Trust
    • Norms and Institutions
  • 3 Where Biology and Culture Meet
Part II Forum
  • Jean B. Silk
  • Carol S. Dweck
  • Brian Skyrms
  • Elizabeth S. Spelke
Notes

序文


多くの動物種では,仲間が苦労して得た成果や経験をお互いに社会的に学習して利用している.こうやって個体が社会的に学習し,〔同じ種でも〕集団によってものごとのやり方がちがってくるほどの水準になったとき,生物学者は文化について語り出す.この実に広い視野に立ってみると,多くの動物種は文化的に異なる集団で暮らしているのが見えてくる.これには,鳥や海生哺乳類,霊長類の多様な種が含まれる.


もちろん,ヒトはそのなかでも模範とも言える文化的な種だ.ヒトに非常に近い類人猿がどれも赤道近くのアフリカ・アジアに生息しているのとちがって,ヒトは地球上の全域に広まっていった.そうしてたどり着いたいたるところで,ヒトは新たな人工物を発明したりものごとのやり方を編み出しては,その地域の環境で遭遇した難局を切り抜けてきた.北極地方では,土着の人々はイグルーを建て,カヤックで鯨漁をしている一方で,熱帯雨林では藁葺きの小屋を建て,弓矢で陸生ほ乳類を狩っている.ヒトにとって,こうした人工物や行動は伊達や酔狂ではなくて,必要なものなのだ.ツンドラ熱帯雨林で,その環境に関連する既存の人工物や物事のやり方なしに生存できるヒトは,まずいない.ヒトの個体が社会的に学習しなくてはならない物事(意思疎通のための言語的慣習も含む)の数で考えると,他の動物種と比べてヒトは数量の面で突出して独特だ.


一方,ヒトの文化を質の面で独特なものにしている特徴で,はっきり観察できるものは2つある.第一に,いわゆる累積的な文化進化がある.ヒトの人工物と行動は,時の経過とともにだんだん複雑になっていくことが多い(つまり「歴史・来歴」がある).なにかの課題にふさわしい人工物や物事のやり方をある個体が発明すると,他の個体がすぐさまこれを学習してしまう.さて,このとき別の個体がこれになにか改善を加えると,発達段階の子供たちも含めて,誰もがこちらの改良版を学習する傾向がある.これにより,後戻りを防ぐ文化的なラチェットがつくられる.そうした営為が改良されるたびに集団のレパートリーに定着し,やがて誰かがさらに新しく改良されたものをもたらすまでけっして後退しない[n.1].これはつまり,個々のヒトが生物学的に過去において適応的だった遺伝子を継承するのと同じように,先祖たちの集団の知恵とも言える人工物や物事のやり方も文化的に継承するということだ[n.2].これまでのところ,ヒト以外の動物種では,改良点を積み上げていき,時の経過につれて後戻りしないよう複雑さをとどめるものは観察されていない.


ヒトの文化に独特な,はっきり観察できる第二の特徴は,社会制度の創出だ.社会制度とは,お互いにそれと認識されたいろんな規範と規則に支配されたふるまいの集合だ.たとえば,すべての人間文化では,それ固有の規則の分脈で交配と婚姻を営んでいる.誰かがこうした規則を破れば,なんらかの制裁をうけ,場合によっては完全に追放されてしまう.このプロセスの一環として,ヒトは文化的に定義された存在を新たにつくりだす.たとえば,夫と妻(および親)といった存在だ.そして,この夫・妻・親には,文化的に定義された権利と義務がともなう(哲学者ジョン・サールは,この新たな創出のプロセスを「地位機能」(status function) と呼んでいる[n.3]).これと別の例も挙げよう.すべての人間文化には,食べ物や希少な物品を共有したり(場合によっては)交換したりするための規則と規範がある.交換のプロセスで,なんらかのモノに貨幣としての文化的な地位が与えられることがある(e.g. 特別な印のついた紙).この地位により,そのモノは文化的な後ろ盾のある役割をもつようになる.また,規則と規範により,首長や大統領といった集団のリーダーがつくられたりもする.こうしたリーダーには,集団のために意志決定をしたり,さらには新たに規則をつくる特別な権利と義務がある.文化的ラチェットにあてはまることは,社会制度にもあてはまる:社会制度に多少なりとも似ているものすら,ヒト以外の動物種では観察されない.


ヒトの文化に見られるこの2つの独自な特徴――累積的な人工物と社会制度――を支えているのは,協調のための一群の種固有な技能と動機だ.これは,とくに社会制度では一目瞭然にわかる.社会制度は,協調的に組織立てられ合意のとられた相互行為の方法を代表するものだ.この相互行為には,協調したがらない者を強制することも含まれる.地位機能は,夫・親・貨幣・首長といったモノが存在し,しかじかの権利と義務があるという協調的な合意に他ならない.マイケル・ブラットマン,マーガレット・ギルバート,サール,Raimo Tuomela[n.4] といった行為の哲学者たちの研究を参照して,こうした協調の独特な形式を可能にしている心理的なプロセスを「共有志向性」(shared intentionality) と呼んでいいだろう.共有志向性には,いちばん基本的なものとして,他者といっしょに協調的な行動への共同意図 (joint intention) や共同コミットメントをつくる能力が関わっている.こうした共同意図やコミットメントは,共同注意と相互知識のプロセスによって構造化される.そして,こうしたプロセスはすべて他者を手助けし他者と共有しようという協調的な動機に支えられている.


これほど一目瞭然ではないものの,ヒトのきわめて協調的な傾向は,文化的ラチェットでも決定的な役割を果たしている.たしかに,これに関わるごく基本的なプロセスは模倣学習ではある(人間はこの模倣学習でじつにすぐれた信頼度の伝達をしているようだ).それに,模倣学習それじたいは協調的なものでなく,他者を利用するものではある.しかし,模倣学習の他にも2つの基本的な協調プロセスが人間文化のラチェットには欠かせない.


第一に,ヒトは積極的にお互いに教えあい,親族だけのために教訓を抱え込んだりしない.教えることは,利他行動の一形式だ.相手の手助けになろうという動機にもとづき,相手が利用できるようにと情報を与える.ヒト以外で相手に物事を教える種はわずかとはいえたしかにいる(教えるにしても,単体の行動を子孫に教えるのが大半だが).しかし,人間以外で積極的になにかを手ほどきする霊長類は反復して報告されていない.


第二に,ヒトはたんに仲間と同じようになろうとして集団の誰かを模倣する傾向がある.つまり,順応しようという傾向がある(おそらく,集団アイデンティティの標識なのだろう).さらに,ヒトは集団の誰かに対して協調的に同意された社会的な順応の規範を思い起こさせることもある.順応すべしという訴えは,逆らえばさまざまなかたちで罰される可能性に裏打ちされている.我々の知るかぎり,順応の集団的な規範をつくりだし実施する霊長類はヒト以外にいない.教えることも,順応の規範も,さらなる発明が登場するまで発明を集団で保持する累積的な文化に寄与する.


このため,他の動物種の「文化」はほぼ例外なく他人をだしにする模倣その他のプロセスにもとづいているのに対し,ヒトの文化は他者の利用だけでなく根本において協調的なプロセスにも立脚している.ホモ・サピエンスが文化的集団での協調して行動したりものを考えるのに適応している度合いは前例がなく,それどころか,実に目を見張る人類の認知の偉業――複雑な技術,言語や数学の記号から,ややこしい社会制度まで――は,個体の行動の産物ではなく,個体どうしの相互行為の産物だ[n.6].成長するにつれ,ヒトの子供は文化的知性をとおしてこの協調的な集団思考に参加するすべを身につけていく.この文化的知性には,協同・社会学習などの共有志向性の形式のための種固有な動機と社会認知的技能が含まれる[n.7].こうした特別な技能は,文化的ニッチの構築と遺伝と文化の共進化から生じる.つまり,こうした技能は,ヒトがみずからつくりだしたさまざまな文化的世界のどれかでうまくヒトが機能できるようにする適応として生じるのだ.


ヒトの協調と文化を説明するには――チャリティへの寄付から,言語や数学の記号,社会制度までをすべて説明するには――複数のアプローチが必要になる.いま現在は,ヒトの協調と文化を研究しているのは次の人々だ:進化生物学者,実験経済学者,ゲーム理論家,社会学者,文化・生物人類学者,認知・社会・進化心理学者などなど.筆者じしんの研究グループでは,人間の子供やヒトにごく近い霊長類たち(とくにチンパンジー)の比較研究をとおしてこうした問題にアプローチするのを選んでいる.ヒトの成人の行動や社会は複雑に入り組んでいる.それに比べて,こうした事例はいくぶん単純であり,前者では見えにくいものがもっとはっきりと見えはしないだろうかというのが,私たちの希望だ.もちろん,子供とチンパンジーの比較によって,系統発生と個体発生の両方で人間の協調の起源についてもなにか明らかになるかもしれない.


子供とチンパンジーに関する私たちの実証研究では,2つの基本的な現象に焦点を当てている:

(1) 利他主義:ある個体が他の個体のためになんらかのかたちで犠牲を払うこと.
(2) 協同:複数の個体が相互の便益のためにいっしょになにかに取り組むこと.


第1章では,人間の子供による利他行動に関する近年の研究を要約する.とくに焦点を当てるのは個体発生の初期における利他行動の出現だが,チンパンジーたちがみせた自発的な手助けの驚くべき観察も進化の基盤として報告したい.ここでの基本的な問いは,幼児たちに利他行動が「自然に」現れるのか,それとも,文化によって教えられてそうするのか(文化がなんらかの役割を果たしているのかどうか),というものだ.第2章では,子供とチンパンジーそれぞれが行う協同の問題解決に関する筆者たちの近年の研究を要約する.ここでの基本的な問いはこうだ――「ヒトと類人猿それぞれが同種の仲間たちと協同してなにかに取り組む方法には,様々な相違点がある.こうした相違点は,どのように特徴づけるのがいちばんいいのか?」 進化の過程で,こうした相違点はどこにさかのぼるのだろうか,そして,社会規範や制度といった協調の産物はいったいどのようにしてもたらされたのだろうか?

第1章 Born (and Bred) to Help


《君主は善人でなくなる方法を学ばねばならない――ニコロ・マキャヴェリ


西洋文明ではこれまでなされてきた大きな論争のひとつに,人間は生まれつき協調的で他人を助ける性質をもっているのに社会によってそれが台無しになっているのか(e.g. ルソー),それとも,生まれたときは利己的で他人を助けようとしないものの社会によって教育されてよりよい人になるのか(e.g. ホッブズ),という論争があります.大論争というのはえてしてそうですが,どちらの主張にもまちがいなくそれなりの真理があります.ここでは,主にルソーの考え方を支持する立場を擁護します.ただし,ルソーの主張そのままではなくて,ここにいくらか批判を加えてもう少しややこしくした立場です.この立場の説を,本書に寄稿してくれた2人に敬意を込めて,「最初はスペルク,それからドウェック」仮説と呼ぶことにしましょう.具体的に言いますと,次のような証拠を提示して論証を展開していきます.ヒトの赤ちゃんは,よちよち歩きやおしゃべりをはじめて真に文化的な存在になり,1歳の誕生日を迎える頃には,すでに多くの場面(もちろんあらゆる場面ではなく)で他人と協調し手助けするようになっているものです.しかも,赤ちゃんは大人からこれを学ぶわけではないのです.つまり,自然にそうなるわけです.(これが「スペルク」の部分です.) しかし,個体発生でこの先に進むと,子供たちがもっていた比較的に無差別な協調性は,さまざまな影響を受けて変化していきます.その影響とは,相手が互酬的かどうかの判断であるとか,集団のなかで他人がじぶんをどう判断するかといった気遣いの影響です.そもそも人間の自然な協調性が進化したのは,こうした要因の助けがあってのことです.さて,こうして赤ちゃんたちは文化に固有な多くの社会規範を内面化して,物事のやり方を学んでいきます――その集団の一員であろうとすれば物事をどうやればいいのかを身につけていくわけです.(こちらがドウェックの部分です.)


子供をお持ちの方々には,いや,ウチの子はどうも自然な協調性の段階をとばしてしまったようだな,とお思いの向きもあるでしょう.そうした方には,急いでこう付け足しておきましょう.ここでは,ヒト以外の類人猿と比較して子供たちのふるまいを述べているのです.これまで生き延びているあらゆる生き物たちには,利己的な傾向がそなわっています.みずからの生存と安寧を気にかけねば,多くの子孫を残せないわけです.協調し手助けをする人間の性質は,いわば,この利己的な土台のうえに建っているのです.


加えて――私の主張をややこしくするカギとなる部分がここなのですが――人間の利他性は,単体の特徴だとは,私は考えていません.そうではなく,活動の領域が異なれば人間の利他性は度合いがさまざまに異なってくるのであり,それぞれの領域に固有な特徴があるのです.マックス・プランク研究所の同僚の研究者である Felix Warneken と私が使っている経済学的な枠組みでは,それに取り込む人間の利他性を,関連する「品目」(commodity) によって3タイプに定義しています.その3タイプとは,財,サーヴィス,情報の3つです[n.1].食べ物のような財に関して利他的にふるまうというのは,気前よく他人と分かち合うということです.採集したり相手の手が届かないものをとってあげたりといったサーヴィスに関して利他的にふるまうというのは,ひとの手助けをしてあげるということです.そして,情報や態度を(ゴシップも含めて)他人と利他的に共有するというのは,情報を提供するということです.こうした3つのタイプの利他性の区別がなぜ重要かといえば,タイプごとに費用と便益が異なっており,また,進化の履歴も異なっているかもしれないからです.


そこで,ヒトの幼児とヒトにごく近い霊長類たちが,これら3つのタイプの利他性への傾向をみせるかどうか,また,みせるとしたらどんなかたちでみせるのか,これに関して利用できる実証データを順に提示していくとしましょう.

【手助け Helping】


基本的な現象は単純です.生後14ヶ月から18ヶ月の幼児が,知らない大人に一度会い,そのほんの少し後に同じ大人と対面します.この大人は他愛のない問題に取りかかっているのですが,,幼児は彼の問題解決の手助けをします――手の届かないところにあるものをとってあげたりとか,荷物を抱えていて大人の両手がふさがっていて,キャビネットのドアを開けられないでいるときに開けてあげたりといった手助けです.ある研究では,生後18ヶ月の幼児24人がテストされ,このうち22人が少なくとも1度は手助けをしました.しかも,たいていは相手が困っているところにすぐさま手助けをしたのです[n.2].


こうしたテストの状況には,それぞれに統制条件が設定されています.たとえば,洗濯ばさみをうっかり落とす〔実験群〕かわりにわざとそれを放り投げたり〔統制群〕,あるいは,荷物を両手一杯に抱えてキャビネットにやってくるのではなくて,なにか他のことをやろうとしている最中にキャビネットにやってくる,という具合です.こうした場合には,幼児はなにもしません.ということは,幼児たちはたんに洗濯ばさみを拾ったりキャビネットを開けることが好きなわけではないことがわかりますね.


幼児たちが手助けをする方法も,実にさまざまです.この研究では,幼児たちは大人が4種類の問題を解決するのをそれぞれ手助けしています:手の届かないものをとってあげる,障害物をどける,大人の失敗を訂正する,課題を解決するのにふさわしいふるまいを選択する――この4種類です.この4つのシナリオはどれもほぼ間違いなく幼児にとってはじめての場面です.少なくとも,具体的な細部に関してははじめて経験する状況です.このように臨機応変に他人の手助けをするには,次の2点が必要です.第一に,幼児たちはいろんな状況で他人の目標を認識できる必要があります.第二に,幼児たちには相手を手助けする利他的な動機が必要です.


こうした単純な物理的問題で他人の手助けは自然と起こる人間行動だと信じるべき理由は,5点あります.第一に,割合に早い時期からこの行動が登場するということ:生後14ヶ月から18ヶ月から,幼児たちは向社会的に〔他人への思いやりをもって〕ふるまいはじめます.この時期には,親たちはまだ我が子がそうしたふるまいをしようとは思ってもいないものですし,まして,そのようにしつけはじめてもいません.ただ,この点は異論の余地があります.と言いますのも,幼児たちは生まれて1年の間に,大人たちが他人を手助けしている姿をみたことがきっとあるはずだからです.


第二の理由.親の与えるご褒美やはげましは,どうやら幼児たちの手助け行動を増やさないらしい点が挙げられます.私たちの研究では,1歳の幼児が手助けをするたびにごほうびをあげてみたり,毎回新たに試すたびに大人にはこれ見よがしにごほうびを手にもっておいてもらいました.ところが,どちらの刺激も,手助けするかどうかに影響しませんでした[n.3].いま進行中の研究では,Warneken と私は,幼児たちが手助けをする機会を2通りに変えています.一方では,幼児たちがじぶん一人で手助けをする機会を与え,もう一方ではお母さんたちが部屋にいて,手助けしようねと言葉ではげましてもらいます.子持ちのみなさん,ご注意を――親たちがせっついてみても,幼児たちの行動にはまるで影響がありませんでした.はげましがあってもなくても,幼児たちが手助けした回数は同じだったのです.実に面白いことに,この2つの研究のどちらでも,幼児たちは総じてとても手助けをやりたがってくれるものですから,おかげで,私たちとしてはなにか幼児たちの気をそらす活動を用意しておいてから手助けの機会がおとずれるように手配することで,どうにか手助けの全体の回数を低く抑えねばならなかったほどなのです――つまり,全体の回数が低くないと,異なる条件での回数にちがいがでてこないわけです.しかし,圧倒的に多くの場合に,幼児たちは面白くて気を引かれる活動を中断して――費用を払って――困っている大人の手助けをしました.


しかし,ごほうびのある状況では,いっそう面白いことになっています.最近の研究で,Warneken と私は,生後20ヶ月の幼児他賃に,いろんな手助けの機会を複数の段階にわけて与えてみました.幼児たちをわけて,一方の子たちには,手助けをするたびに具体的なごほうびを与えます.そのごほうびとは,面白い動作をする小さなおもちゃで,子供たちはとても気に入ってくれます.もう一方の幼児たちには,まったくごほうびを与えません.手助けをしてくれた幼児たちに,当の大人はありがとうも笑顔も何一つ返さないのです.大半の子供たちは,5回の機会に手助けをしました.第二段階に参加した幼児たちには,さらにもう数回手助けする機会があります.ところが,今度はどちらの幼児たちにも大人からなんの反応も返しません.結果は,目を見張るものでした.第一段階でごほうびをもらっていた子供たちは,もらっていなかった子供たちよりも,この第二段階で手助けをした回数が少なかったのです.

この「過剰正当化効果」(overjustification effect) は,スタンフォードの心理学者 Mark Lepper をはじめとする研究者たちによって,多くの活動領域で記録がなされており,行動そのものが動機になっていること〔内発的動機〕を示していると考えられています.それ自体がごほうびとなる活動では,活動以外のごほうびが与えられると,この内発的な動機がそこなわれてしまうのです――つまり,動機を外にあるごほうびに移してしまうわけです.もともと外部のごほうびにうながされている行動なら,このようにさらなるごほうびに影響されないはずです.つまり,具体的なごほうびは,たんに子供たちの手助けを後押ししないばかりか,かえって邪魔をしてしまうかもしれないのです.


幼児たちがたんにごほうび目当てや親をよろこばせるために手助けをしているわけではないと考えるべき第三の理由に,チンパンジーたちも同じ行動をすることが挙げられます.Warneken と私は,前にやった研究から10コの課題を選んで,人間に育てられた3匹のチンパンジーにやらせてみました.他の課題では手助けしなかったのに,手の届かないものを人間にとってあげる課題だけは,チンパンジーたちも手助けをしました(統制条件では手助けしませんでした)[n.5].


人間に育てられたチンパンジーたちが人間の手助けをする理由はいくつも考えられることは,私たちも承知しています――なんといっても,彼らの生きる世界を支配しているのは人間なわけですしね.そこで,また別の研究では,母親に育てられているチンパンジーたちに,お互いに手助けしあう機会を与えました.この研究では,一方チンパンジーが部屋に入るドアで四苦八苦している様子を他方のチンパンジーがじっと眺めます.眺めている方のチンパンジーは,それまでの経験から,ドアはピンをはずすと開くことを知っています.驚いたことに,様子を眺めていたチンパンジーは,ピンをはずして,仲間が部屋に入れるようにしてあげました.彼らがごほうびを予想していたという証拠はまったくありません.仲間がこれと同じように部屋に入ろうと試みていない2つの統制条件では,眺めている方のチンパンジーは手助けをしませんでした[n.6].ここでの議論にとって大事な要点はこれです――私たち人間にいちばん近い霊長類(人間との過去の接触が最小限度だった者も含めて)が私たちにそっくりな手助け行動をとるのだとすると,これは,人間の手助け行動は人間ならではの文化環境によってうみだされたものではないという証拠になります.


第四の理由には,ごく簡略に触れるにとどめます.というのも,データがまだ十分に分析されていないからです.私たちがこれまで研究してきたのは,西洋の中流階級の子供たちです.新しい研究では,それより伝統的な文化に暮らすだいたい同じ年頃の子供たちも,基本的に同じ状況で手助けをすることがわかりました(私たちの文化と比べてこうした文化では典型的に親たちによる子供への介入はずっと少なく,そのなかで子供は育つにまかせられています)[n.7].


最後に第五の理由として,近年の研究により,幼児たちの手助け行動は相手への共感とつながっていることが明らかになっている点が挙げられます.生後24ヶ月の幼児18人を対象にした研究で,幼児たちは,ある大人がずっと作業していた絵を,別の大人がつかんで故意にびりびりと破ってしまう様子を目にします.するとすぐさま幼児たちは犠牲者(無表情)の方に目をやり,見まがいようもなくはっきり「心配」に分類できる表情を浮かべます.統制条件の方では,悪役の大人は相方の大人の目の前で白紙を手にとってびりびり破くのですが,こちらでは心配の表情はそれほどみられませんでした.さらに,これと関連した条件では,被害を受ける場合にもそうでない統制条件でも,大人からおもちゃがとりあげられます.このとき――いまの議論にはここが最重要なのですが――子供たちには犠牲者役または統制条件役の大人を手助けする機会が与えられます.結果はこうなりました.統制条件と比べて,子供たちが犠牲者になった大人を助ける回数の方が多くなったのです.興味深いことに,せっかく描いていた絵を破かれた大人に心配の表情を浮かべていた子供たちには,手助けをする傾向がより強く見られました[n.8].ここから,犠牲者のうけた仕打ちに対して幼児に自然とわき起こった共感・同情の反応が,彼らが手助けする傾向に影響したことがうかがい知れます.外部のごほうびではなくこの「心配」こそ,幼児たちの手助けをどう気づけているのだと,私たちは主張します.


以上,5点の理由を挙げてきました.早期に現れること,はげましに影響されずごほうびで減少すること,進化の上で類人猿に深い根っこがあること,文化をまたいで頑健であること,自然な共感の感情に根ざしていること――こうした理由から,ごく幼いうちから子供たちが他人を手助けするのは,文化または/および親の手による社会化の営為がうみだした行動ではないと私たちは考えています.文化や親による社会化の産物ではなくて,これは困っている他人に対する子供たちの自然な共感の性向が行動に表れたものなのです.他のラボでの研究も,この結論と合致しています:1歳未満の幼児たちですら,人を助ける行為者と助けない行為者を区別するのです[n.9].

【情報を与える Informing】


たしかに,チンパンジーも人間の幼児も,場合によっては助け合うこともあるのですが,人間の幼児しかやらない特別なかたちの手助けがあります.それは,必要とされる情報を提供することです.ここが重要なのですが,これは言語に依存していません.人間の幼児は,早くも生後12ヶ月で他人に情報を与えるようになります.言語以前ですので,指さしのかたちをとります.チンパンジーその他の類人猿は互いに指さしでなにかを教えたりはしません.これは私の主張ですが,類人猿たちは指さしにかぎらずコミュニケーションの手段を使ってお互いに情報を伝えて助け合ったりはしないのです.


研究者たちは,こんな場面を設定して研究しています.大人(女性)がなにか大人ならではの課題をやっている様子を,言語習得前の幼児にみてもらいます.紙の束をホッチキスでとめるとか,そういう課題です.彼女は,その作業と並行して別のモノも操作します.この人が部屋を出て行くと,入れ替わりに別の大人がやってきて,2つのモノを棚にしまってしまいます.そのあと,最初にいた大人が紙の束をかかえて戻ってきて,ホッチキスの作業を続けようとします.ところが,テーブルにホッチキスは見あたりません.「いったいどうしたわけだろう」という身振りをしながら,彼女はあちこち探してみるのですが,なにも言葉には出しません.手段の手助けをする研究のときと同じく,ここでも幼児たちは大人の問題を把握して,彼女を助けようという動機を抱き,たいていは目当てのホッチキスのありかを指さしして,教えてあげるのです.幼児たちが2つのモノのうちホッチキスでない方を指さすことははるかにまれでした.大人は2つとも均等に扱っていたにも関わらずです.幼児は,じぶんがホッチキスをほしがっていたわけではありません.大人がホッチキスを手に取った後は,幼児はよくある要求のしぐさ(むずがったり手をさし伸ばしたり)をしませんでした.大人がホッチキスを手に取ると,幼児は指さしをやめて,満足したのです[n.10].この後のフォローアップ研究では,幼児がたんにホッチキス止めの作業が再開されるのを見たがっていたという可能性も排除されました[n.11].


幼児たちは情報を与える指さしを理解していることを一貫して立証していますが,他方で,類人猿たちの場合はちがいます.類人猿たちは,互いに指さしをすることがありませんし,人間に何か指さしをする場合には,主にじぶんに食べ物をとってよこすよう人間に指図するためにやるのです[n.12].じっさい,類人猿が人間に指さしをしたのが観察されたすべての事例では,どの動機はつねに指令しよう(命令しよう)というものでした.また,なんらかの人間中心のコミュニケーションを学習した類人猿たちは,人間とコミュニケーションをとるためにしかこれを使いません.類人猿どうしでは使わないのです.また,彼らはもっぱら指図をしようという目的にしかこれを使いません.数年前のことですが,同僚の Josep Call と私は,ある観察をしました.人間が類人猿用の食べ物をいれた箱を開けるための道具を必要としているときに,類人猿がその道具のありかを人間に指さしする,という観察です[n.13].このことは,人間に情報を与えているのだとも解釈できますが,命令として人間に「その道具をとれ」と指図しているのだとも解釈できます.最近の研究には,類人猿と人間の幼児を直接に比べたものがあります.さっきと同じような状況で類人猿と幼児が指さしをするのですが,条件が変えてあります.一方の条件では道具は人間が類人猿になにかをとってあげるのに使われるのに対し,もう一方の条件では道具は人間がじぶんのためになにかをとるのに使われます[n.14].研究者たちは "ABA" 設計を用いました.最初のセッションと3回目のセッションでは,類人猿と幼児の被験者は,人間の大人が彼ら〔類人猿または幼児〕になにかをとってあげるのに道具を使います.しかし,2回目のセッションでは,人間の大人はじぶんのためになにかをとるために道具を使います(被験者にはなんのごほうびもありません).すると主に何がわかったかと言いますと,類人猿は最終的にじぶんがなにかを手に入れる場合にだけそれとはっきりわかる指さしをするのです.これは,彼らの指さしは実は指図(「その道具をとれ」)なのだという解釈と整合します.他方,幼児たちはどちらの場合にもひとしく指さしをしました.おもしろいことに,幼児たちのなかには,大人がみずからのためにごほうびをとろうとしたがると腹を立てる子もいました.とはいえ,幼児たちは大人が困った様子であたりを見回しているときに道具の方を指さしました.どうしても情報を与えずにはいられなかったのです.


おそらくみなさんも驚かれるでしょうが,類人猿たちは情報を与えるように指さしを使うと,理解すらしません.類人猿たちは視線の方向や指さしの方向をたどって目に見える目標物にたどりつきはするのですが,情報を与えようとするコミュニケーション意図〔伝達意図〕はわからないようです.たとえば,多くのさまざまな研究から,類人猿が隠された食べ物を探していて,人間がカップを指さしてありかの情報を与えようとしても,類人猿はこれを理解しないことがわかっています.類人猿たちは,なぜ指さしをしている人間がカップにじぶんの注意を引きたがっているのか考えようとしません.その関連性を探ろうとしないのです[n.15].これは,類人猿にとってはまったくもって当然のことです.と言いますのも,彼らの日常生活では,食べ物のありかを指さして助けようとする経験などありはしませんからね――類人猿たちは互いに食べ物を我先に得ようと競い合っているものです.ですから,類人猿たちは利他的な意図を想定しないわけです.他方で,人間の幼児たちは,生後12ヶ月から14ヶ月くらいという言語習得以前の時期から,そうした場面で情報を与えようとする意図を理解し,適切な関連性の推論を行います[n.16].指さしを目の当たりにしたとき,幼児たちは「いったいどうして,*ぼくにとって* あのカップが手助けになったり関連性があると *彼女は* 考えるんだろう?」とでも自問しているように見えます.この自問は,哲学者ポール・グライスのいう協調の原則のようなものに基づいています:つまり,他人はじぶんたちにではなく対話相手に関連のあるなにごとかの情報を私に伝えることで私を手助けしようとしている〔という想定〕に基づいているのです.チンパンジーはグライス風の協調の原則みたいなものに沿って行動をとりはしません――彼らの暮らす自然界ではその方がふさわしいのです.このため,チンパンジーは適切な関連性の推論をたてるための土台を持ち合わせていません.


ですが,類人猿たちのあげる警戒の呼び声や食べ物をみつけた呼び声はどうなのでしょうか? こうした呼び声は情報を与えようとする意図によって生み出されているのではないか,と疑問に思われるでしょう.一言で言いますと「ノー」――そうではありません.捕食者をみつけると,たとえ他の仲間たちがみんなその捕食者を見ていて叫んでいようとも,人間以外の霊長類たちは警戒の声をあげます.また,豊富な食料源をみつけたときも,グループ全員がとっくにまわりにいるときにも叫び声をあげます.こうした場面で彼らが目標としているのは,仲間たちに情報を与えることではありえません.明らかにみんなとっくに知っているわけですからね.彼らがなにをやっているのであれ,それはじぶん自身か血縁の直接の利益のためなのです.(このようにも思弁をめぐらせられるしょう――「警戒の声によって,彼らは捕食者にオマエはもう見つかっているぞと警告したり,群れで立ち向かうために仲間を呼び寄せているのであり,また,食べ物をみつけたときの叫び声によって食事中に捕食者たちから身を守るための仲間を確保しているのではないか」) 類人猿たちは身振りであろうと発声であろうと,互いに情報を与えて助けようと意図しないわけです[n.17].


他方で,人間の幼児は互いに情報を与えて助け合ったり,じぶんに向けられた情報提供の意図を正確に解釈するばかりか,指図も協調的に理解します.たとえば,人間がする指図の大半はめいれいではありません.たとえば「水をよこせ」とは言わないですね.そうではなく,もっと間接的な言い方をするものです.たとえば,「水がほしいのですが」と言ったりしますね.これはたんなる欲求の表明でしかありません.相手にじぶんの欲求の情報を伝えることによって,私は水を手に入れられます.なぜなら,相手が協調してくれて,こちらの欲求を知ると,自動的にこれを満たそうという気を起こしてくれるからです.最近の研究では,こんな実験をしています.まず,部屋のなかに2台のテーブルがあります.生後12ヶ月の幼児と研究者のそばに1台,そして部屋の向こう側にもう1台です.どちらにもバッテリーがおいてあります.さて,研究者が幼児に「そのバッテリー」をとるよう頼みます.幼児がこの研究者の言葉を単純で直接的な命令と理解したときには,どちらのテーブルにあるバッテリーも,ひとしく「そのバッテリー」に該当します.しかし,手助けをしてちょうだいという協調的な依頼だと理解したときには,手助けの論理からして,研究者がお願いしているのはじぶんではかんたんにできないことでしかありえません.ということは,部屋の向こうにあるバッテリーを求めていそうだということになりますね.そして,まさにこちらこそ,幼児が想定したことなのです.命令法は協調的な手助けの論理のもとづく手助けの依頼でありうることがここからわかります[n.18].


このように,幼児と類人猿を比べてみると,情報提供の場合はちがっていることがわかります.情報提供の場合,手段の手助けをする場合とちがって,類人猿たちはどうやらまったくやらないようなことを人間は協調的にやっています.このことから,どうやら利他性は一般的な特徴ではなくて,ある活動領域では利他的な動機が生まれる一方で別の領域ではでてこないことがうかがわれます.次章では,どうして人間だけが他人の必要とする情報を与えて手助けをするのか,その理由の進化論的な説明を試みます.個体発生の観点でみますと,こうした生後12ヶ月の幼児たちがごほうびをもらったりはげまされたりしたから相手に情報を与えて手助けをしているとは,とても想像できません.情報を対価なしに (freely) 共有することは,非常に幼い子供たちであっても自然に起こるようです.もちろん,子供たちはまもなく嘘をつくことも学習します.ですが,嘘というのは数年後にようやく現れるものですし,協調と信頼がすでに存在していることをその前提にしています.互いに助け合う性質を信頼する傾向が人々に無ければ,嘘はスタートを切ることすらできないでしょう.

【共有する Sharing 】


類人猿たちが食べ物のような資源の共有に関してあまり利他的でない点は,実質的にすべての専門家たちが合意しています.
たんにほんのわずかなエネルギーを使ってモノを指さしたりとってあげたりして人間の手助けをしてあげるのより,希少な資源を分かち合うことの方がずっと難しい命題なのは自明でしょう.仮に,私たちが乗った飛行機がアンデス山中に墜落したとしましょう.私のポケットにはグラノーラが1本入っているのですが,人間である私にしても,これを気前よく他人に差し出すことはなかなかないでしょう.それでも,2つの実験的な場面でいくらか直接的に比較したところ,人間の幼児たちは我らが類人猿たちよりも食べ物や希少なモノに関して気前のよいところを示しました.


第一に,2つの類似の研究(一方は私たちの実験室の研究,もう一方はUCLAの研究)では,チンパンジーたちは食べ物を自分以外が受け取るかどうかをまったく気にかけないらしいことがわかりました.1つのバージョンでは,チンパンジーの被験者たちに,2つある板のどちらかを引っ張る選択が提示されます.それぞれの板にはごほうびを入れたトレイが2つ載せてあります:1つのトレイは被験者じしんがとれるようになってあり,もう一方のトレイはお隣のケージにいる他のチンパンジーがとれるようになっています.いちばん単純な場面ですと,2枚ある板の一方には被験者用の食べ物が1切れ用意してあるだけでパートナー用の食べ物はありません.他方,もう1枚の板にはそれぞれのチンパンジー用に食べ物が1切れずつ用意してあります.つまり,被験者が費やす必要のあるエネルギーはどちらの板でも同一であり,しかも,被験者の受け取るごほうび(1切れの食べ物)も変わりありません.ここで問題なのは,チンパンジーたちはパートナーにもいくらか食べ物が渡る板を引っ張るかどうか――じぶんにはまったく〔追加の〕コストがかからないときにパートナーに食べ物が渡るようにするかどうかです.どちらの研究でも,答えは「しない」でした.また,チンパンジーたちは決まって自分用の食べ物だけが載った板を引っ張ることで,一貫してパートナーに食べ物が渡らないようにすることもありませんでした.彼らは引っ張る板を無差別に選んだのです.どうやら,じぶんのために食べ物を手に入れることだけに注意を集中していたようです.食べ物が隣のケージにも渡ることを彼らが知っていたことを確かめるため,この研究では統制条件をつくってあります.統制条件の方では,隣のケージが空っぽで,入口のドアも開けっ放しにしてあります.このため,板を引っ張る役のチンパンジーは隣のケージに入るようになっている食べ物をすぐさま取りに行けます[n.19].研究者たちは,最近になって,よく似た場面設定で生後25ヶ月の幼児や学齢期の子供は利己的な選択肢よりも衡平な〔両者にごほうびが行き渡る〕選択肢を選ぶことが多いことを明らかにしました[n.20].


みなさんの中には,自然と疑問がわく方もいることでしょう.Warneken の手助け研究では,チンパンジーたちは仲間が道具的な目標 [instrumental goal] を達成できるように手助けをしているように思われました.それなのに,この板を引っ張る研究ではチンパンジーたちはじぶんにはまったく〔追加の〕コストがかからないというのに相手が食べ物を手に入れる手助けをしていませんね.これはどういうことでしょう.いま私たちはこのパズルを解く手がかりとすべく,ある研究を進めているところです.ただ,さしあたって言えるせいいっぱいの推量を述べておきますと,食べ物を引き寄せる実験の場面設定では,チンパンジーたちはじぶん用の食べ物を手に入れることに注意を集中している(他の仲間たちがどうなるかはどうでもいい)のに対して,さまざまな手助け研究の場面設定では,チンパンジーたちはじぶんのために食べ物を手に入れる立場になく,このため,じぶんのための食料調達や競争的な方略が支配的にならないのだろうと考えられます.


第二の実験の場面設定では,チンパンジーうしの食べ物をめぐる競争の効果をもっと直接的にみることができます.Alicia Melis が率いるマックスプランク研究所の研究者たちは,食べ物が乗った板に2本のヒモを結びつけて,これをチンパンジーたちに提示しました.先行研究では,チンパンジーたちはこの課題をうまくこなしませんでした.ですが,そうした研究では,食べ物は決まって板の中央に載せてあったのです.これでは,食べ物の分かち合いが問題になるのは明らかです.Melis らの研究チームは,この効果を再現しましたが,それに加えて,ある条件では食べ物をあらかじめ分けておいてからチンパンジーたちに提示しました.つまり,板の両端に,それぞれのチンパンジー用の食べ物を用意しておいたわけです.すると,チンパンジーたちはずっと上手に共同作業をこなしました.どうやら,先行研究でチンパンジーたちの成績がふるわなかったのは,この課題を認知の面でうまくこなせないからではなくて,この作業をいっしょにやったとき最後に生じるであろう争いのことまですでに考えていたからだったようです[n.21].最近,Warneken と彼のチームは同じ研究をを幼児で行いました.幼児たちは,食べ物があらかじめ分けてあろうとなかろうと別に気にしません.子供たちがいつも食べ物をひとしく分かち合うというわけではありません.一方の子がじぶんの取り分をパートナーより多くすることもあります.ですが,その場合には,パートナーはやりなおすように抗議しますし,相手もたいていはそれにしたがいます.これはつまり,どちらのパートナーも次の試行でやり直す用意があり,これをやりとげられると信頼しているということです.チンパンジーたちには,そうした信頼がありません.


ですが,もっと自然な場面設定ではどうなのでしょうか? もっと最近の研究では,野生の雄チンパンジー潜在的な味方と交配相手と食べ物を分かち合うことが報告されています.ですが,これらはほぼ決まって物々交換〔バーター〕であって,気前よく与えているわけではありません[n.22].葉っぱのついた木の枝をいくつか人間が1本にまとめたもののような低品質の食べ物をチンパンジーたちに提示すると,彼らはその同じ枝から仲間が食べ物をとるのを許します[n.23].ところが,食事中のチンパンジーたちがどんな行動を自然にとるかと言えば,仲間たちから数メートル離れて食べるのです.そして,直に物乞いされたりいやがらせを受けたときにしか,食べ物を手放しません.これと対照的に,人間の幼児たちは,好んでモノを人に与えます――それどころか,好んでモノをじぶんから差し出します.そして,多くの場合,そうして与えるモノは食べ物です.ですが,同時に,幼児たちはモノに執着して,断固として手放そうとしないこともあります.この点で,私たちが立っている土台はしっかりしていません.というのも,対照実験がないためです――もしかすると,カギとなる要因は,「幼児たちはたいていのモノや食べ物を気にしないだけ」なのかもしれません.だとすると,このとき幼児たちのことを「気前がいい」のは,それこそ気前がよすぎることになります.とはいえ,自然な場面設定では,ごく幼い子供たちであっても,類人猿たちと比べてずっとかんたんにモノや食べ物を手放します.


人間と類人猿を比較する最後の具体例として,母親とその子供による食べ物の共有をみていきましょう.食料の調達に関して,チンパンジーの若者たちは自立しています.じぶんの母親と競合している部分すらあるほどです.近年の研究では,3組の母親・幼児のペアによる食べ物の共有を体系的に調べています.研究者たちは,チンパンジーの幼児が母親から食べ物を得ようとした試みを84回記録しており,そのうち50回が拒絶されています.これより積極的に食べ物を譲った事例は稀で,たった15回しか起きていません.もっと言いますと,母親が食べ物を子供に譲った場合にすら,それはいつも――事例の100%で――自分が食べている食べ物のあまりおいしくない部分を譲っているのです.つまり,皮ですとか,殻やサヤ,貝殻といった部分しか譲っていません[n.24].これでも,他の大人や非血縁の子供よりはマシな対応です.ということは,明らかになんらかの母親としての本能がはたらいていることになります.一方,人間の母親はじぶんの幼児にもっと気前よく積極的に分け与えます――し,ジャンクフードを買い与えたりします.


このように,食べ物のような資源の共有の場合,人間の子供はチンパンジーよりも気前よくふるまうようです.ですが,これもまた程度の問題でしかない点を再び協調しておきます.飢えた人間も,やはりそれほど気前よくはないものです.つまり,チンパンジーたちはつねに飢えているかのようにふるまっているだけなのです.