メモ:大津「粉砕」論文

KAWASE 木製バット85cm

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以下,すこし抜粋を:

今にも燃え上がりそうになるのに,なかなか燃え上がらない暖炉の火のような風情なのが,「英語帝国主義」を巡る議論の展開である.英語教育に関するこれまでの議論や論争とは異な!),英語教育関係のメディアではなく,あの『週刊金曜日』がその第一幕の舞台となった(中村 1994a)こともあり,加えてその編集者の一人である筑紫哲也が「ロを挟」んだ(筑紫 1994) こともあって,議論は一気に白熱する気配を見せた.しかし,少なくとも『週刊金曜日』誌上での議諭はそれ以上の展開を見せることなく,いかにもお義理で組まれたという風情の投稿特集 (1994年11月4日号)が掲載されて,幕となった.


「英語帝国主義」に関するこれまでの議論を振り返ってみると,中村(1994a)も指摘するとおり,「英語帝国主義」状況からの脱却の具体的方法についての議論は「英語帝国主義」の現状分析の鋭さに比べはるかに心許ないということに気づく.本稿はこの欠落している部分に関する筆者の提言をまとめたものである.そのためには,「英語帝国主義」状況を生み出した,あるいは生み出している要因を明らかにすることから始めなくてはならない.


(大津 1995: 20)

メタ言語能力とは


子どもは母語の文法の獲得と並行して,ある時期から,獲得された文法を客体化することができるようになる.たとえば,有名な一休和尚のとんちばなしにある「はしをわたるべからず」のくだりを理解するためには,自分の文法(ここでいう文法とは当該言語の母語話者が脳に内蔵している当該言語の知識を指す.この例では日本語話者が脳に内蔵している日本語の知識を指す)の辞書に入っている「橋」と『端』の2つの語が分節音素の連結としては同一であること,この2つの語とも「___をわたるべからず」という文脈に挿入されても(それぞれ結果として得られる文全体の意味は異なるが)意味的な不整合をきたさず,しかもそのそれぞれの意味が,問題の文が小川にかかった橋のたもとに立てられた看板に書かれているという状況と適合するということが認識されなくてはならない.このように,文法が内省などによって意識の対象となった場合,その意識を「メタ言語意識 (meta-linguistic awareness)」と呼び,メタ言語意識を呼び起こすための能力を「メタ言語能力 (metalinguistic abilities)」と呼ぶ.


(Ibid.)

そこで,まず,「粉砕」の基本的主張を整理しておこう.それはつぎのようにまとめることができる.「英語帝国主義」状況からの脱却をはかるためには,現在,英語が事実上の「世界語」として通用しているのは,英語という個別言語それ自体が持つなんらかの特性によるものではなく,ひとえに歴史的/社会的/政治的/軍事的理由によるものであることを正しく認識することにある.この認識を達成するためにはメタ言語能力の養成がもっとも効果的であるというのが「粉砕」の基本的主張である.


すぐ上で述べたように,「粉砕」での議論は,メタ言語能力の養成により,ある個別言語が他の個別言語より言語構造の点で優れているということはないという点の認識が可能になるというものであった.当然,英語が他の言語より言語構造の点で優れているということはないことになる.さらに,同じ認識に根ざすことではあるが,英語が他の個別言語と比べて獲得しやすいということもないと〔いう〕点も付け加えておいた.


こう整理すれば,英語が言語構造という点でも,獲得の容易さという点でも,他の個別言語より優れているということはないのだから,英語が事実上の「世界語」として通用しているのはそれ以外の理由に求められるべきものであるということは明白である.その認識にまで達することができれば,単純な引き算によって,その理由が歴史的/社会的/政治的/軍事的なものであることを認識するのにそう苦労は必要としないだろう.


(大津 1999: 172)

「粉砕」のあと公刊した大津 (1998) で述べたように,筆者は,学校英語教育における学習者に英語以外の言語にも触れる機会が保証されているという前提のもとで,学校教育の一環としての外国語教育の対象言語は英語であってもかまわない,さらに言えば,英語が現代社会で持つ通用度の高さを考慮すれば,むしろ,英語であることが望ましいと考えていると述べた.


この点に対しても何人かの方々から批判をいただいた.筆者がほんとうに「英語帝国主義」の粉砕を望むのであれば,外国語教育の主要な対象言語として英語を許容することは自己矛盾であるというのである.しかし,筆者はそうは思わない.すでに述べたように,筆者の提案する言語教育が行われれば,学習者は,英語が言語構造という点でも,獲得の容易さという点でも,他の個別言語より優れているということはないという認識のもとに,英語が事実上の「世界語」として通用しているのはそれ以外の理由に求められるべきものであるという理解に到達する.筆者は,学習者の側にこの理解があるかないかが「英語帝国主義」状況からの脱却にあたって,決定的であると考える.その理解を学習者の持つフィルタと言ってもよいだろう.そのフィルタをかけさえすれば,そのフィルタが機能している度合いに応じて,「英語帝国主義」に陥る可能性は減っていくはずである.


もちろん,英語以外の言語を外国語教育の主要な対象言語として選んでもよいのであるが,筆者にはそれが現実的であるとは思えない.「現実的でない」理由は,学習者の動機づけ(motivation)の問題と教師確保の問題にある.


(大津 1999: 172-3)