Lyons (1977) のモダリティ論を抜粋・翻訳・註釈するスレ (3)


蝸牛の歩みでジョン・「サー」・ライオンズのモダリティ論を読み進めるシリーズです.前回はこちら


Semantics 2

Semantics 2


さて,ライオンズの様相(モダリティ)論にとって要となっているのは,発話の意味を3つの層にわける考え方です.

かんたんにツリーを描いてみましょう:



これは(それなりに)有名な主張ではあるものの,3層の名称には定訳がないようです.ここでは次のように暫定的に訳しておきます:

  • tropic : 遂行標示 : 定言的断定では「私はかく語る」(I-say-so) となる.*1
  • neusitic : 承認部分 : 定言的断定では「これは事実である」(it-is-so) となる.
  • phrastic : 命題部分


このうち,tropic と neustic は哲学者ヘア (Richard M. Hare) の『道徳の言語』*2に依拠した区別です:

ヘアによる承認部分と遂行標示の区別は,フレーゲ (cf. Dummett, 1973: 308ff) を踏襲してラッセル & ホワイトヘッド (1910: 9) が断定記号 (├) に帰した機能のうち2つを分けるものとなっている.断定記号は命題変項の前におかれ,その命題が真として断定されているのであってたんに考慮のために思い描かれているだけではないことを示す.
(Lyons 1977: 750)


ここで改めて注意しておくべきなのは,この3層が 発話の 意味を階層化したものである,という点です*3

ここでは,承認部分・遂行標示・命題内容を発話の論理構造の要素として扱う.
"We will treat the neustic, the tropic and the phrastic as being components of the logical structure of utterances." (Lyons 1977: 750)


以上をふまえると,たとえば

It is raining.


という発話の意味には,

[私はかく語る;
  [これは事実である; 
    [雨が降っている]]]


――という階層構造があると分析されます.


この3層モデルをもちいてライオンズは認識様相の分析をすすめていきます.

主観的認識様相と客観的認識様相の区別は理論的に擁護できるものだとして(また,すでに指摘しておいたように客観的認識様相は一方の真理様相と他方の主観的認識様相の中間にあり,双方に似たところがあるのだとして),ここで問題となるのは,前の章で展開しておいた発話の3項分析の観点でこの区別をどう分析できるだろうか,という点である.定言的断定は it-is-so の承認部分 (neustic) と I-say-so の遂行標示部分 (tropic) から成り立っていることを思いだそう*4.その発語内効力はこの2つの要素の積として説明される.主観的・客観的な様相的発話の主なちがいは,限定なき定言的な I-say-so 要素は後者にあって前者にないという点であることは,いまや明らかだろう.客観的な様相をもつ発話をなすことにより,話し手はじぶんが聞き手に伝えている情報の事実性に自己拘束(コミット)することとなる.このとき,彼は断定の行為を遂行しているのである.


客観的な認識様相には「私はかく語る」(I-say-so) の要素*5があるが主観的なものにはないという主張がなされていますね.裏返すと,客観的な認識様相は「事実」であるということです:「客観的な様相をもつ発話をなすことにより,話し手はじぶんが聞き手に伝えている情報の事実性に自己拘束(コミット)することとなる」という箇所に注目してください.

事実であると述べられたことがらは,聞き手によって否認されたり疑問を受けたりできる(「それはちがう」;「そうなの?」;「そんな話は信じないね」などなど).また,聞き手によって受け入れられもする(「賛成だね」;「そうだね,知ってるよ」など).さらには,真正の条件言明で仮定されうるし,叙実述語の補部で参照することも可能だ (I knew that Alfred must be unmarried〔アルフレッドが未婚なのは知っていたよ〕).


この箇所では,主観的/客観的な認識様相を判別する文法的な規準を示されています.客観的な認識様相は事実であるため,次のような特徴を示すとされます:

  • 疑問化できる
  • 聞き手によって承認・否認されうる
  • 条件節に生起できる
  • 叙実述語の補部に生起できる


さらりと短く書かれている箇所ですが,主観的認識様相をめぐる議論の祖型となっていまに引き継がれています.この区別については Verstraete (2001)*6 で改めて整理されています.また,Papafragou (2006) はこの規準の妥当性を批判しています.これについてはまた別の機会にとりあげることにしましょう.(この文法的規準は破綻しているとみるべきだとぼく自身は考えています.)

 ライオンズの議論はこう続いています:

以上の全ての点において,客観的様相化と主観的様相化は異なっている.主観的様相化の本質は,限定抜きの定言的な "I-say-so" を発話の命題内容の事実性に与えるのを差し控える点にある.主観的に様相化された発話は(言明と呼ぶのに問題がないものであろうと)意見や伝聞の言明であって事実の言明ではないし,まさにそうしたものとして報告できる.たとえば


(19) 'He said that it might be raining in London' (ロンドンでは雨が降っているかもしれないと彼は言った)


という発話は,次の発話を報告するのに使える


(20) It may be raining in London (ロンドンでは雨が降っているかもしれない)


いまの議論で問題となる解釈が (20) には2通りあるが,そのいずれも (19) で報告できる.しかし,


(21) 'He told me that it might be raining in London' (ロンドンでは雨が降っているかもしれないと彼は私に伝えた)


この発話は,話し手が (20) に客観的認識様相があるととらえているときにかぎって,(20) のトークンを報告するのに適切に使える.たとえば,(20) が気象予報士によって発話されている場合などが挙げられる.(20) が主観的に様相化された発話として解釈されている場合は,次のような言明で報告する方がより適切になる.


(22) He told me that he thought it might be raining in London (ロンドンでは雨が降っているかもしれないと思うと彼はぼくに伝えた)


(23) he expressed the opinion that it might be raining in London. (ロンドンでは雨が降っているかもしれないという意見を彼は表明した)



このことから,主観的に様相化された発話は,定言的断定や客観的に様相化された言明とちがって,伝える (telling) という行為にはあたらないことがうかがわれる.また,この点でその発語内効力は疑問のそれに似ている.疑問もやはり非叙実的だ (cf. (9)).もちろん,自信と権威の程度はさまざまであれ「〜であるかもしれない」「〜であるにちがいない」という意見を表明することは,「〜は本当にそうか」と訊ねる(または疑問に思う)ことと異なる.しかし,いずれの場合にも,発話で表現される命題の事実性を是認したり認めたりすることを話し手が避けていたりできないでいるという明らかな標示がみられる.また,どちらも個体発生的に疑いという同じ心理状態に発している点は変わらない.

つづきます

*1:「遂行標示 (tropic) は,その文を使って典型的に遂行される言語行為の種類に対応する文の要素である:これはヘアのいう「叙法の記号」(a sign of mood) にあたる.多くの言語では,じっさいに遂行標示は叙法の範疇で文法化されている.」("The tropic is that part of the sentence which correlates with the kind of speech-act that the sentence is characteristically used to perform: it is what Hare calls "a sign of mood"; and in many languages it will in fact be grammaticalized in the category of mood.");おおまかに言って,標準的な言語行為論でいう発語内効力標示装置 (illocutionary force indicating device) に相当するとみてよさそうです.

*2:R. M. Hare, Language of Morals, Oxford University Press, 1952

*3:ライオンズはヘアが文と発話を注意深く区別していない点を指摘しています:"Like many authors, Hare frequently used the term 'sentence' where it would seem to be more appropriate to use the term 'utterance'; nor does he distinguish clearly between 'statement', 'declarative' and 'indicative', between 'command', 'jussive' and 'imperative', and so on."

*4:原文では it-is-so が遂行標示,I-say-so が承認部分とされていますが,誤植と判断して訳しています.

*5:かつての遂行仮説なら I TELL you と表記したであろう要素

*6:Jean-Christophe Verstraete, "Subjective and objective modality: Interpersonal and ideational functions in the English modal auxiliary system," J. Pragmatics 33 (2001), 1505-1528.