抜粋:大西巨人「批評の民主主義」から

 私の記憶によれば,イギリス人ラセルズ・アバクロンビーは,彼の著書 "Principles of Literary Criticism"〔『文芸批評の原理』〕の中で,アリストテレス著『詩学』かをも援用して,“凡庸の人物”には,偉大な制作者(の卓抜な作物)を,貶す資格はおろか,誉める資格すらも,ない.”という意味のことを述べた.…… (A)

 また私の記憶によれば,フランス人ジャン・P・サルトルは,彼の一文章──この場合には,私が,その著書名ないし論文名をさえ失念,──の中で,“民主主義的な関係は,人間をその行為によって判断することから成立するのであり,人間によってその行為を判断することから成立するのではない.”という意味のことを言った.…… (B)


(※引用中の〔〕は原文のもの)

その本来の真意において,もちろん (A) と (B) とは,なんら抵触しない.そしてそれが,十全な「言論(批評)の民主主義」である.そしてまた,似非「言論の民主主義」においては,(A) も (B) も,無碍に否定せられ,あるいは (A) と (B) とは,もろに抵触する.


上記 (A) と (B) の喩えとして:

(a) 褌担ぎは,横綱に,それ相応の尊敬をもって交渉応接するべきである.実際に相撲を取ったら,片手であしらわれるくせに,褌担ぎが,遠吠えの口先でだけ横綱を手玉に取って見下げるような大口をたたくのは,至極のさもしさ浅ましさであり,言論の民主主義にまったく背反する.「遠吠えの口先でだけ」という語句は,「活字の上でだけ」とか「匿名でだけ」とか「陰口でだけ」とか「電話線の向こうでだけ」とかいうような語句によって適宜に置き換えられることができる.

(b) 褌担ぎは,横綱と,相撲においても,人生の諸問題においても,五分五分に角逐し討論することができる.横綱は,“おれは,横綱在位間の過去八場所に,一場所平均十一勝四敗強の成績を納めたのだから,そののち先先場所九勝六敗,先場所八勝七敗,今場所五勝四敗六休でも,皆は,おれを今日現在ないし今場所の最強力士と認めるべきだ.”などと主張してはならず,また誰も,横綱のそんな主張を是認肯定してはならぬ.