補足:『知の欺瞞』は何を批判していたか


 mojimojiさんは,先日のエントリの内容を「trivial」*1 なものであり,「サイエンス・ウォーズにおけるソーカルのツッコミみたいなもの」*2 だと記しておられます.

 ぼくの批判が細部または枝葉末節に関わるものだという点はべつに否定しません.ですが,ぼくはソーカルやブリクモンが『知の欺瞞』でやったような批判をしたわけではありません.

 まず,mojimojiさんのエントリ「サイエンス・ウォーズ」の全文をみてみましょう.

 一般論として、ある命題と、その論証において、論証がまちがっていることを指摘するのは、それはそれで意味がある。ただ、命題そのものにはちゃんと意味があるから、その意味において(どういうわけか)使えたりもしてしまう。だから、結局のところ、その命題が使えてしまっているならば、命題の論証に瑕疵があることを指摘するだけではなくて、その命題を別のやり方で論証するか、あるいは、あるいはその命題の逆を論証するか、というところまで行かないと、十分な成果とは言えない。

 ソーカルポストモダン批判は、無意味とは言わないけれども、ポストモダン哲学のさまざまな含意を論証したわけでも反証したわけでもない。ある命題を統計的に実証する、というときに、統計学の使い方に根本的なまちがいがあったりすれば、それは致命傷だろうけれど、ポストモダンの哲学者たちが数理的方法を用いているのは、その膨大な著作の一部に過ぎないのであって、その一部の論証に瑕疵があるということを指摘したに過ぎない、と言える程度の厚みはある。

 ここで「過ぎない」というのは、無意味だということではない。ただ、その指摘からは、その命題の含意を、採用すべきとも棄却すべきとも言えないわけで、「知の欺瞞」みたいな話は大風呂敷に過ぎるでしょう、ということ。もちろん、これは、デリダラカンをありがたがる、というような話とは違う。デリダから導ける命題が使えそうだと思うなら、デリダがその論証をしくじっていても、それを自分で実際に論証してやればいいのだし、逆に、それが使えないと思うなら、その逆を実際に論証してやればいい。また、論証するしない以前に、このアイデアは使えるのではないか、と単に拾い上げるだけの作業にも、もちろん、意味はある。

 そもそもそんなおかしなまちがいをするな、と言うかもしれないけれど、たとえばケインズの『一般理論』だってマルクスの『資本論』だって、一貫した統一性の下に解釈するのはとても困難なのであって、その意味で、混乱はある。ただ、未完成の部分や誤りが含まれているとしても、ケインズマルクスの著作は、その記述を頼りに自分なりに再構成するに値する内容を含んでいる、とみなされている。また、あれほどのビッグネームでも、そうはみなさない人もいるのも、故なきことではない。この程度のことは、どの分野でもあること、と思う。

 その意味で、サイエンス・ウォーズはtrivialなもの、と、僕は思っています。trivialなものとみなされていないという事実については、trivialだと思っていませんが。


ここでは,ソーカルが「ポストモダンの哲学者たち」の「一部の論証に瑕疵があること」を批判したのだと書かれています.

 ですが,これは事実とちがいます.

 このエントリに,ぼくははてなブックマーク次のようにコメントしました:

optical_frog
ポストモダニストさんたちは数理的方法を用いた(が間違った)のではなくて,数理的方法を使ってるかのように見せかけた(けどデタラメが多かった),そこが問題だったのでは.だから fashionable nonsense なんですよ.


一方,mojimojiさんは次のようにコメントされています:

mojimoji
id:optical_flogさん、それ、どこが違うの?/僕が言っているのは、論証の瑕疵を指摘することと、反証することは違う、ってことですよ?


こちらの言葉が足りずうまく説明できなかったようです.

 あらためて説明します.

 ソーカルとブリクモンが『知の欺瞞』で行ったのは,ポストモダニストたちによる科学概念の「濫用」の批判です.

われわれには,ポストモダン思想全般を分析しようなどというつもりはない.われわれの目標は,この分野では数学や物理学の概念や用語の濫用がくりかえされているというあまり知られていない事実に,より多くの人の目を向けることである.さらに,ポストモダンの著作にしばしば見られる,自然科学の内容または自然科学の哲学に関連したある種の思考の混乱についても議論する.
(p. 6)

その「濫用」は次のようなものを指します:

(1) どう見てもごく漠然としか理解していない科学の理論を長々とあげつらうこと.最もよく見受けられるのが,用語の本当の意味をろくに気にせずに,科学的な(あるいは疑似科学的な)用語を使ってみせるという流儀である.

(2) 自然科学の概念を,概念的なあるいは経験的な正当化をすこしも行わずに,人文科学や社会科学に持ち込むこと.たとえば,ある生物学者が彼女の研究の中でトポロジー集合論,あるは微分幾何の基本的な概念を応用しようとするなら,なぜそのような道具が役に立つのかについていくらかの説明は要求されるはずだ.漠然としたアナロジーだけでは,生物学者仲間に相手にされないだろう.〔以下略〕

(3) まったく無関係な文脈に,恥もなく専門用語を投入して,皮相な博学ぶりを誇示すること.科学を知らない読者を感服させ,さらには威圧しようとしているとしか考えようがない.〔以下略〕

(4) 実際にはまったく意味のない言葉や文章をもてあそぶこと.これが度を過ぎると,以上あげた著述家の幾人かのように,言葉の意味についての重度の無関心症を併発した真性の専門用語中毒に陥ることになる.
(pp. 6-7)


つまり,数理的な方法に間違いがあるとか論証にミスがあるといった,まともな研究であっても避けがたい「瑕疵」を批判したのではなく,学術的な概念を歪曲したり,深遠そうにみえつつ実はしばしば意味をなさない言明を繰り返すというような,学問全般の規範に反した行いを批判したのです.

 じっさい,ソーカルとブリクモンみずから,“重箱の隅つつきではないか”・“ただの揚げ足とりではないか”といった反応に対して本文でこう記しています:

1 引用は些末なものばかりではないか. われわれは重箱の隅をつついて,他人の揚げ足をとっているという意見があるかもしれない.われわれが批判している著者たちが科学の正規の教育を受けていないのは明らかで,彼らは不慣れな領域にあえて足を踏み入れたためにちょっとした間違いを犯しただけのことだろう.彼らは哲学や社会科学において重要な業績をあげているのであり,そんな「些細な誤り」をあげつらったところで,彼らの重要な業績になんら傷がつくものではない,というわけである.まずいっておきたいのは,これらのテクストに見られる濫用は単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではないということだ.事実や論理に対する,軽蔑とまではいかないにしても,ひどい無関心がはっきりと現れている.したがって,われわれが試みようとしているのは,相対性理論ゲーデルの定理について間違いを書いた文芸批評家を笑いものにするといったことではなく,いやしくも学術的な分野たるものが共通に持つ(あるいは,持つべき)合理性と知的誠実さの規範を擁護することなのだ.
(pp. 9-10)


以上からわかるように,『知の欺瞞』はポストモダニストの細かな科学的間違いを批判したのだと理解するのは間違いです.

 繰り返します:

ポストモダニストさんたちは数理的方法を用いた(が間違った)のではなくて,数理的方法を使ってるかのように見せかけた(けどデタラメが多かった),そこが問題だったのでは.だから fashionable nonsense なんですよ.


 一方,科学概念を濫用したポストモダニストとちがい,hituzinosanpoさんは,他人の文章・概念を正確に引用しつつ,意味のはっきりした文章で主張を示されました.それに対するぼくの批判は,なるほど trivial ではあるでしょうが,ともあれ事実と推論の妥当性を対象にしたのであって,濫用を批判したのではありません.したがって,この議論の文脈で『知の欺瞞』または「サイエンス・ウォーズ」を持ち出すのは的をはずしています.


 事実の正確な把握を目指したり,学術的な概念・用語をゆがめずに用いるとか,その分野の専門家なら誰でも理解できるように明晰な文章を心がけるとか,そういったことは初歩的な心得でありいつでも心がけるべき課題ではあっても断じて trivial ではないと思います.