必然性と予期:猫は必然的に動物か?


困ったときのクルーズてんてー頼み,というわけで,リハビリ的に Meaning in Language から自分の気に入ってるところをチョイスして紹介します.


Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics)

Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics)

3.3.2.1 必然性と予期


〔意味の相対的次元の〕一つ目のパラミターは必然性 (necessity) だ.このパラミターについて単純な見方をするなら,必然的な論理関係と偶有的な論理関係とを截然と二項対立にして,ある特性が必然的かどうか伴立を使って判定すればいい.下記の (24) にもとづいて「動物であること」はイヌの必然的な特性だと言える:

(24)
「X はイヌである」は「X は動物である」を伴立する.
「X はイヌである」は「X は吠える」を伴立しない.


単純な二項対立にオサラバする最初の一歩として,まずは伴立の観念に対する読者の信頼を揺るがすことにしよう.ある文 A が別の文 B を伴立するかどうかを,私たちはどれくらい自信をもってはっきりと断定できるものなのだろうか? 一般に伴立とみなされる次の例を考えてみよう:

(25) 「X は歌うのをやめた」は「X は歌い続けなかった」を伴立する(?)
(26) 「X は猫である」は「X は動物である」を伴立する(?)
(27) 「X は妊娠している」は「X は女性である」を伴立する(?)
(28) 「X は物体である」は「X は重さがある」を伴立する(?)
(29) 「X は四足動物である」は「X には足が4本ある」を伴立する(?)
(30) 「X は Y の妻である」は「X は Y の娘ではない」を伴立する(?)


おそらく大半の話者は,(25) の伴立に最大限の自信をもつことだろう:これは私たちが知っている世界の構造による伴立ではなくて,純粋に「やめる」と「つづける」の意味による伴立だ:現代日本語でのこれらの意味はそのままで同じなのにこの伴立が成り立たなくなるような世界なり宇宙なりを想像することはできない.ところが,(26)-(30) では伴立の堅固さはあまり確かでなくなる.


まず (26) をみよう.よく知られた「ロボット猫」のシナリオがここに関わっている.こんな具合だ.ある日,じつはいままでみんなが思っていたのとちがって,猫は動物ではなくてとてもよくできたロボットだったのが判明したとしよう.他方,猫以外はいまでも動物とみなされている.この状況設定のもとで,私たちはこのニュースに (31) と (32) のどちらで反応するだろうか?

(31) うわ! じゃあ猫なんてものはいないんだ!
(32) うわ! じゃあ猫って思ってたのと違うんだ!


ふつうの話者の大多数は,ためらわず (32) を選ぶ.ということは,ごく控え目に言っても動物であることは猫であることの必然的な規準ではないのだとわかる.というのも,話者たちは「猫」という名前は保持しておいてその指示対象についての考えを変える傾向をみせているからだ.


この解釈は,話者たちが頑なになる場合と対比するとさらに強固になる.オスの馬なんていないと判明したとしよう:つまり,いままで私たちが牡馬(スタリオン)だと思っていたものは,じつはちがう種に属していたのであり,子馬は単為生殖で生まれていた,というわけだ.この状況設定で私たちが叫んでしまうセリフは (33) と (34) のどちらだろう?

(33) うわ! じゃあ牡馬なんてものはいないんだ!
(34) うわ! じゃあ牡馬ってぼくらが思ってたのとちがうんだ!


こんどは,さっきほどに圧倒的多数ではないものの,しかし話者の大半は (33) を選ぶ.このことから,どうやらオスであることと馬であることは牡馬(スタリオン)であることにとって必須要件なのだとわかる(厳密に言うなら少なくともそのどちらか一方が必須なのだが).そうすると,普通名詞には2つの異なる種類があるようだ.ひとつは,その概念的範疇の内容が根底から変わっても指示の安定性 (referential stability) を示す名詞であり,もうひとつはそうでない名詞だ.前者のタイプは自然種名辞 (natural kind terms) として,後者は唯名種名辞 (nominal kind terms) として知られている.


前記の例 (27) の場合,同じく伴立の否定論でも,これと少しちがっている.これはライオンズが指摘したことだが,複数の権威によれば,受精した胚を生物工学によって男性に移植し,発育させ,最終的には出産させる技術が存在するそうだ.私たちはそうした男性に「妊娠している」という表現をあてはめるだろうか?(大半の人たちは,ためらいつつではあっても,この表現をあてはめる.) そうだとすると,(27) の関係は私たちの世界の通常のありかたに依存していることになる──つまり,これは論理的な関係ではないんだ.


例 (28) みたいな,科学的真理にかかわるとおぼしきものになると,人々はさらに確信をもてなくなる.物理法則が〔現実と〕異なりうるということを,思い描けるだろうか? そうした考えを提示されると,人々は「想像できる」と認める.かくして,この関係の論理的な必然性は打ち砕かれる.


例 (29) には,またちがう論点がかかわっている.もし猫が事故で脚を1本失ってしまったら,もう四足動物ではなくなるのだろうか? 大多数の見解は,そうじゃない,というものだ.「足が4本ある」というのは明らかに四足動物の定義そのものなのに,これはどこかおかしな感じがする.けれども,この問題はじつにあっさりと解決する(が,(29) の伴立はボロボロとくずれる):その定義で定義されているのは,任意の四足動物のことではなくて,十全な四足動物のことなのだ.


例 (30) は少しうたがわしい.あるイミでは,これは論理的な関係でなく,特定の社会的なきまりに左右される関係だ.社会的なきまりは,社会によって異なることもある.他方で,この関係は(ある社会では)法的な定義から生じる.(この論理関係が成り立つには,こんなふうに言えないといけない,と考えるひともいるだろう:

(35) 「X は英国法のもとで Y の法的な妻である」は,「X は Y の娘ではない」を伴立する.


仮にこう言ったとしても,この関係に一分の隙もないかどうかはたしかでない.X も Y も,X がY の娘だとは知らずにそのまま罪の自覚なく結婚した場合はどうだろうか.このとき,Y が X の娘だと証明されないかぎり,X は Y の法的な妻なのではないだろうか?)


(26)-(30) に示した関係のうちあるものは他よりも強固だということがあきらかになった.必然性の度合いの尺度を認めた方が便利だろう.もっと言えば,やるなら徹底的にやって,否定的な必然性すなわち不可能性にまで尺度を拡張してやればいい.

(36)
こいつはイヌだ,しかし動物だ.(トートロジー
こいつはイヌだ,しかし動物じゃない.(矛盾)
(“動物である”は「イヌ」の必然的な特性)

(37)
こいつはイヌだ,しかし吠える.(おかしい──トートロジー
こいつはイヌだ,しかし吠えない.(正常)
(“吠える”は「イヌ」の予期される特性)

(38)
こいつはイヌだ,しかし茶色い.(おかしい)
こいつはイヌだ,しかし茶色くない.(おかしい)
(“茶色い”は「イヌ」のありうる特性)

(39)
こいつはイヌだ,しかし歌う.(珍しいイヌの記述として正常)
こいつはイヌだ,しかし歌わない.(おかしい──トートロジー
(“歌う”は「イヌ」の予期されざる特性)

(40)
こいつはイヌだ,しかし魚だ.(矛盾)
こいつはイヌだ,しかし魚じゃない.(トートロジー
(“魚である”は「イヌ」のありえない特性)


もっと精密な区別も可能だ(し,区別する価値はある).とくに,必然性尺度の上部にある「予期される」の領域はもっと細かくしていい.Lyons (1981) は,物理世界の性質にもとづく予期をあらわすのに自然の必然性 (natural necessity) を,そして人為的な法や社会慣習にもとづく予期をあらわすのに社会的必然性 (social necessity) を,それぞれ提案している.Cruse (1986) は,(29) のような場合を標準の必然性 (canonical necessity) と呼んでいる.このタイプの予期は,さらに拡張して (27) のような場合を含ませてもいいだろう.というのも,男性の妊娠は,たしかに論理的な矛盾ではないとはいえ,一種の逸脱例──つまり標準外──ではあるからだ.当然ながら,この〔男性への胚移植‐出産の〕プロセスがもっとありふれたものになれば,“女性の”という特性は必然性尺度を下っていって,たんに「妊娠している」に予期されることにすぎなくなるだろう.