「公的真実」磯野家版:「真実」だけど「事実」ではない,とな?
東浩紀氏が「ポストモダニズム系リベラル」の考えとして「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と書いておられます(「歴史認識問題についていくつか」).
このような言明にでてくる「真実」は,「事実」を含まない「みんなの意見」を大げさに表現したものでしかありません.
まず,東氏の議論は次のとおりです:
1.私的信念について
東浩紀は南京大虐殺は(規模の議論はともあれ)あったと考える。
これは随所で公言している。
2.公的真実について
東浩紀が「リアルのゆくえ」および今年後期の東工大の授業で展開している主張は、下記のとおり。
A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。
B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。
C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。
C'.逆に、もし「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。
C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。
これをもっと日常的な例におきかえてみましょう.
磯野家で,棚においてあったタイ焼きがなくなるという憂慮すべき事件がおきたとします.タイ焼き泥棒の犯人が詮索され,「カツオ犯人説」と「ワカメ犯人説」がでてきたとしましょう.どちらが正しいか,なかなか決着がつきません.ただし,いわば「神の視点」にある私たちはじつは犯人が波平だと知っているものとします.
サザエ=ポストモダニズム系リベラリズムの立場というかたちで,この状況にさきほどの議論をあてはめてみましょう:
1.私的信念について
私=サザエはカツオが犯人だと考える.
これは食卓でなんども公言している.
2. 公的真実について
A. 磯野家に,カツオが犯人だと断言するひとと、ワカメが犯人だと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である.
B. ポストモダニズム系リベラルの理論家は,「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している.
C. だとすれば.ポストモダニズム系リベラルは,たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても,ワカメが犯人だと断言するひとの声に耳を傾ける,少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない).
C'.逆に,もし「ワカメが犯人だと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば,そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない.
C''. むろん,上記の主張は,カツオとワカメを入れ替えても言える.
ええと,(D) がずいぶん悲壮感をただよわせていますが,争点はタイ焼きですからね.
それに,「自己矛盾」なんてべつにありはしません.ここでいう「真実」に「事実である」という意味は含まれていないからです.
カツオ犯人説とワカメ犯人説を主張する人がそれぞれにけっこうな数がいるからといって,本当の犯人が波平だという「事実」が変わることなんてありえません.ですので,上記の文脈でいう「絶対的真実」には「事実」の意味は含まれないとわかります*1.
すると,ここでいう「真実」とは「波平が犯人だという知識」または「波平が犯人だという意見の一致」くらいにしか解釈できません.よって,「絶対的真実はない」という大げさな言葉は,たかだか「みんながそろって一致する意見なんてない」くらいのことを言っていることになります.
ようするに,「世の中はとても広いのでいろんなことを信じる人がいるものだ」ということですね.たしかにそのとおりで,世の中には「水がことばを理解する」と主張しているひとだっています.なるほど「ポストモダニズム系リベラリズム」の言うとおりです.
ですが,だからといって“もし「水がことばを理解すると考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば,そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない”と鼻から言うのであれば,「ポストモダニズム系リベラリズム」にはとても賛成できません.水はことばを理解しないという既存の証拠が圧倒的だからです.
大事なのは,いろんなことを言う人がいるとしてもそのことによって事実が変わるわけではない,ということです.そして,事実についての主張には証拠が求められます.心のうちでひそかに想うだけなら必ずしも証拠はいりませんが,証拠がないなら主張するべきでないし,主張するなら証拠を出さなきゃいけません.
「絶対的真実」なんておおげさな言葉を使う前に,まずは事実と意見を区別することからはじめましょうよ.