「信じる」と「信仰する」


「信じる」には「信仰する」とほぼ同義の使い方があります.

たとえば,「私は神サマを信じている」と「私は神サマを信仰している」はほぼ同じ意味です.

ですが,当然ながら「信じる」がつねに「信仰する」と同義なわけではありません.

たとえば,「私は明日は晴れると信じている」という文は適格ですが,「私は明日は晴れると信仰している」という文はおかしな言い方に感じられます.

さて,次のような推論を考えてみましょう.

A. Xは科学を信じている.
B. したがって,Xは科学を信仰している.


もし「信仰している」にひとしい意味で「信じている」を使っているなら,この推論はトートロジですのでたしかに妥当です:

A. Xは科学を信仰している.
B. したがって,Xは科学を信仰している.


妥当ですが,知的な発見はありませんね.

では,「信じる」の意味は「信仰する」と異なっていると解釈するのはどうでしょうか.

A の「科学を信じている」は,「科学の諸説が正しい/事実であると信じている」という意味に解釈できます.

一方,B の「科学を信仰している」にはそのような解釈(パラフレーズ)ができません:「*科学の諸説が正しい/事実であると信仰している」

上記のパラフレーズによって,この推論を書き換えてみましょう:

A. Xは科学の諸説が正しい/事実であると信じている.
B. したがって,Xは科学を信仰している.


ぼくには,この推論がどうして成立するのか理解しかねます.

ここで理解のネックとなっているのは,「科学を信仰する」という述語の意味です.どのような事態が成り立っている(いない)とき,「Xは科学を信仰している」という言明が真(偽)になるのでしょうか.