形式とはぼちぼち付き合っていこうよ,とフォコニエせんせいは言った


 認知言語学はアンチ形式化だという見方があるようですが,それはちょっと強すぎるまとめ方のように思います.

 穏健な立場の一例として,ジル・フォコニエ『メンタルスペース』から拙訳で引用します:

数学に深い関心をいだくひとたちにとって皮肉だったのは,彼らがブルバキホワイトヘッドの基準に順応しないといって非難されたことだ.論理に基づいて広範な形式化をしようという主張は,立派なことではあるにせよ,我々がやっているような科学にとっては見当違いだと我々はみている.数学や物理科学が何世紀もかけて到達した発達と見解の安定の段階から,我々はまだ遠いところにいるのだ.不十分な分析に時期尚早な形式化をしてみても,科学的な理解の適切な進展を後退させ障害となるおそれがあると我々はみている.正確さと明示性はともにたいへんのぞましいものだが,我々はこれらを20世紀の数学における形式主義と区別する.後者も特定タイプの研究にとってはのぞましいことではあるにせよ,万能薬ではないのだ.数理的言語学創始者であるノーム・チョムスキーがいったことは,この点で適切だ.いわく,論理学の教科書が設けているような形式的理論の規準をみたせという勧告など,自然科学で全くと言っていいほどまじめにとりあわれてない.彼はこう書いている:

ひところ,そうした企図には周辺的な関心がありました.たとえば Woodger が生物学の形式化を試みたのはよく知られていますが,経験的な帰結を欠いていたために,忘れ去られています.数学においても,我々が言うイミでの形式化が発展したのは1世紀まえからで,そのときに研究と理解をすすめるうえで重要となったのです.私の知るかぎり,19世紀の数学や現代の分子生物学よりも言語学が進展しているなどということはありません.前者にとっては〔形式化の〕[推進の]追及はよいことだったのでしょうが……しかし,形式化するのに理由があるとして,そうできるであろう程度には研究が十分明確になっていなくてはいけません.

ここでの要点は明確であるし,19世紀からさかのぼってみてもあてはまるだろう:しかるべきときに適切な理由からなされるなら,形式化には何も問題はない;しかし,それじたいが目的ではないのであって,それで恣意的に理論の構築を制約してはいけない.数学者もこう言うはずだ,形式的な証明は数学の概念的思考の表面的なあらわれにすぎないのであり,そのイミで,そうした特定の種類の思考をひとに伝えたり備忘のため控えておくうえでべんりな方法なんだよ,と.

(Gilles Fauconnier, Mental Spaces, Cambridge University Press, 1994, pp. xxxiii-xxxiv)


 ぼく個人としては,たんに形式的な議論に疎いしちゃんと理解するアタマがないということにつきます.

 なお,メンタルスペース理論の形式化を試みた文献として,次の論文があります:

伝康晴「メンタル・スペース理論の形式化に向けて」『認知科学の発展』vol.3, pp.117-152, 1990.


すでに20年ちかく前の文献ですね.最近ではどんな風に展開してるんでしょうか.