killhiguchiさんからお手紙がきました
「どのようにコピーペーストしていただいても結構です」とのことですので,とりあえず掲載します(原文にこちらで改行を加えています).
評価の形容詞は、主語の属性である側面と話者の評価付けの側面と2つの側面を持っていると考えられます。したがって、属性面での時間を語れば、ある時間における主語の属性を表し、そのときのみの話者の評価を表すのではないでしょうか。
「(あのときは)あの映画は面白かった(今は面白いとは思わない)」。
一方、評価付けの側面での時間を語れば、それは、話者が主語に属性を付与した時間での評価を表し、属性は主語モノの永続性・同一性に担保されて発話時現在でも当てはまるものになると思います。
「あの映画は面白かったよ」。
これが、optical_frogさんが
「過去時制が言外の「経験」だけを過去にしているという点です(「おいしい」という評価は現在も成り立っています).はっきりと言葉にされているのは「おいしい」という評価の形容詞だけで「(前に食べたときに)」という部分は暗黙の要素なのに,時制がその暗黙の要素を選び出して過去にしているわけです.」
とおっしゃる理由になっているのではないでしょうか。
評価付与読みの場合に、話者が出現可能になるのも、同じ理由かと思います。
これは情態形容詞一般に言えることかと思います。情態形容詞は主語の属性を語るものですが、その属性は話者にある時点で発見されなければなりません。したがって、一方では、属性面で時間を語れば、属性のある時間での成立(=属性の発見時間)を表すことになります。
「(昔)空は青かった」。
また一方では、属性の発見の面での時間を語れば、属性のその時間での話者による経験と、モノの同一性に担保された発話時での属性にもなると考えられます。
「ジョンの目は確か青かった」。
ただし、話者はあくまで発見者であって属性そのものには関与していませんから、主語に現れることはできません。主体化されているとでもいうのでしょうか。
対して、情意形容詞は、話者の気持ちしか表しませんから、ある時間での情意を語れば、そのときだけの話者の気持ちを表すことになります。
「母の死が悲しかった(今は悲しいかどうかわからない)」。
無論話者も出てこれます。
しかし、情意形容詞の中でも、温度・痛覚の形容詞だけは、刺激体によって生じる話者の感覚が複数の主体にも通用するものであれば、刺激体の属性に読まれることになります(尾上圭介の「日本語学」掲載の主語論参照)。
- 属性読み「(昔の)バラのとげは痛かった(今のバラのとげは痛くない)」。
- 発見読み「(確か)バラのとげは痛かったね」。
ところで killhiguchiさん,トラックバックを使うという手もあると思うのですが…