英語では“感情が見える”らしい
まずは下の例文を読んでください:
(1) 私は彼が{悲しい/嬉しい/楽しい}のを見たことがない.
(2) ぼくが悲しいのを見て,田中さんがはげましてくれた.
(3) ぼくが嬉しいのを見て,山田さんが「なにかいいことがあったの?」と訊いてきた.
(1)-(3) いずれの例文も,なんだかおかしな感じがしますね.
それぞれ次のように書き換えると自然な文になります:
(4) 私は彼が{悲しんでいる/嬉しがっている/楽しんでいるの}を見たことがない.
(5) ぼくが悲しんでいるのを見て,田中さんがはげましてくれた.
(6) ぼくが嬉しがっているのを見て,山田さんが「なにかいいことがあったの?」と訊いてきた.
このように,「悲しい」・「嬉しい」といった感情の形容詞は「見る」の補文にでてこられず,対照的に,「悲しむ」・「嬉しがる」といった感情の動詞は「見る」の補部に生起できます.*1
その理由は明らかです.
形容詞の「悲しい」・「嬉しい」は外面にあらわれず観察のしようがない心的状態そのものを表しているので「見る」の補部に生起できないのに対し,動詞の「悲しむ」・「嬉しがる」はそうした感情の外面的なあらわれをも表せるから「見る」の補部に生起できるわけです.
なお,形容詞という統語範疇そのものが「見る」と相性が悪いわけではありません:
(7) 田中さんの顔色が悪いのを見て,山田さんは登山を中止するように忠告した.
(8) 長女のケーキの方が大きいのを見て,次女がむくれた.
ということは,やはり「悲しい」・「嬉しい」がもつ性質が問題のはずです.
感情そのものは見えないけれど感情の表出は見えるという,当たり前の認識論的な事実がここには反映しています.
同じ理由で,「写真に撮る」ことができるかどうかのちがいもでてきます:
(9) ビデオレターをみていたとき,父はぼくが{悲しい/嬉しい/楽しい}のを写真に撮った.
(10) ビデオレターをみていたとき,父はぼくが{悲しんでいる/楽しんでいる/怒っている}のを写真に撮った.
感情形容詞の (9) はおかしく,感情動詞の (10) は正常です.
杉岡 (2007)*2 にならって,内面の主観的な状態そのものを表すという特性を [+subjective] とし,その状態の外面的な表出を意味するという特性を [+expressive] と記すことにします.すると,上記の対比を次のように整理できます:
さて,以上の観察をふまえて,今度は英語の例文をみてみましょう:
(11) I never saw him {sad / happy / angry}.
(12) Dad took some pictures of me being {sad / happy / angry} when I was watching the video letter.
(11) は see の補文に,(12) は take some pictures of につづいて,感情形容詞があらわれています.
英語の母語話者4名に確認してみますと,どちらもちゃんと容認されました.
上記の例文が適格だということは,sad, happy, angry といった英語の感情形容詞は見たり写真に撮ったりできる事象を表しているということです:
英語の感情形容詞 sad/happy/angry : [+subjective] [+expressive] : 第三者に知覚できる
以上の観察をまとめると,つまりこういうことになります:
- 日本語の感情形容詞「悲しい」「嬉しい」は見えない(心的状態だけを表す)
- 英語の感情形容詞 sad/happy/angry は見える(心的状態の他に感情の表出も表せる)
これはなかなか味わい深い事実です.次の(古典的な)例文をみてください:
(13) 私は{悲しい/嬉しい}.
(14) #あなたは{悲しい/嬉しい}.
(15) #田中さんは{悲しい/嬉しい}.
(16) #私は{悲しんでいる/嬉しがっている}.
(17) ?あなたは{悲しんでいる/嬉しがっている}.
(18) 田中さんは{悲しんでいる/嬉しがっている}.
(19) I am {happy/sad}.
(20) You are {happy/sad}.
(21) He/she is {happy/sad}.
主語の人称に注目していただくと,容認性のちがいが面白いことになっているのがみえてきます:
- 日本語の感情形容詞「悲しい」「嬉しい」は見えない : 三人称主語と生起不可
- 日本語の感情動詞「悲しむ」「嬉しがる」は見える : 三人称主語と生起可能
- 英語の感情形容詞 sad/happy/angry は見える : 三人称主語と生起可能
ようするに,感情表出があって「見える」述語は三人称主語と正常に生起でき,心的状態だけを表していて「見えない」述語は三人称主語と生起できないらしいのです.
神尾『続・情報のなわばり理論』から抜粋
では,なぜ日本語では,心理文が構文論的現象なのであろうか.これについて確定的に答えることは困難である.しかし,次のような指摘が古くからなされている.日本語で1人称の心理文が可能であるのは,話し手自身の心理は話し手にとって直接観察または体験出来るからであり,2人称や3人称の主語の心理は話し手にとって直接観察したり体験したり出来ないからである.この説明は少なくとも真相の一面を捉えているであろう.すなわち,日本語はこのような認識上の事実を素直に構文にまで反映した言語であり,英語はこのような事実を語用論的にしか反映していない言語であると言えよう.(中国語も英語にきわめて類似している.) しかしながら,このような説明では,結局なぜ日本語と英語のような区別が生じるのか,本当に解明したことにはならないと言える.なぜならば,言語は常に認識論的な事実を素直に反映しているとは限らないからである.そのような指摘に関しては,今後の研究に期待するしかないと答えざるを得ない.
(pp.67-8)
この宿題にちゃんと答えられるようになりたいです.
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