理由節の認識様相:だれの認識?


通例,「-かもしれない」は話し手の推量を表すとされます.たとえば下記の例では雨が降る可能性を話し手が判断しています:

a. 雨が降るかもしれない.


 では,次の例はどうでしょうか:

b. 雨が降るかもしれないので,田中さんはカサを持っていった.


ここでは「かもしれない」は田中さんからみた可能性を表しています:雨が降る可能性があると田中さん本人が思ったので傘を持っていったのであって,話し手がそう思ったから田中さんが傘を持っていったわけではありません.

 以上のことは,Egan, Hawthorne and Weatherson 2004*1 が次の例を挙げて指摘しています:

(48) The Trojans were hesitant in attacking because Achilles might have been with the Greek army. (Egan, Hawthorne and Weatherson 2004: 159)

(54) Marvin the Martian dropped this pants as the Queen passed by because it would have been rude not to.
(55) Children are scared of adults because they are huge.
(56) Vultures eat rotting flesh because it tastes great.
(Ibid., 159)


彼らの分析によれば,一般に X φ-ed because p は命題 p が X にとって真であると相対化されて解釈されるのだとされます:

In general it seems that the truth of an explanatory claim of the form, X φed bacause p depends only on whether p is true in X's context (plus whether the truth of p in X's context bears the right relation to X's φing). Whether or not p is true in our context is neither here nor there. Adults are not huge, rotting flesh does not taste great, and it is rude to drop one's pants as the Queen passes by, but (54)-(56) could still be true, and could all count as good explanations. Similarly, (48) can be true because Achilles might have been with the Greek army could be true relative to the Trojans.
(Ibid.)


これは実に興味深い観察です.同様のことが日本語でも成り立っているらしいことは,さきほどの例からわかります.

 しかしながら,田中さんの知識に相対化されているとおぼしき例 (b) も,話し手の認識とまったく無関係だというわけではないようです:

a. 雨が降るかもしれない.#でも,ぼくは雨が降るとは思わない.
b. 雨が降るかもしれないので,田中さんはカサを持っていった.(?)でも,ぼくは雨が降るとは思わない.
c. 雨が降るかもしれないというので,田中さんはカサを持っていった.でも,ぼくは雨が降るとは思わない.


それぞれの容認度を考えてみますと,まず (a) は明らかに信念の内容が矛盾しています(cf. ムーアのパラドクス).ここで興味深いのは,田中さんの認識を表しているはずの (b) でも同様の矛盾が感じられることです*2.信念の矛盾が感じられるということは,理由節の様相命題を話し手じしんも受け入れているとみなされることを示します.対照的に,「という」を挿入した (c) ではそうした矛盾がありません.

 ここで,「S-ので」が前提を伴う構文だという点を考慮に入れた方がいいでしょう:

d. 雨が降っているので,田中さんはカサを持っていった.#でも,ぼくは雨が降っているとは思わない.
  →前提:雨が降っている


ここでは「雨が降っている」と田中さんが信じていることがカサを持っていった理由(動機)として示されていますが,同時に,話し手にとっても事実だとみなされています.そのため,信念を否定する表現を後続させると矛盾が生じます.

 しかしながら,これだけでは (b) の問題を説明できません.「S-かもしれない」が特定の認識主体 x の知識 Kx に相対化されていると分析する場合,次のような形式化がなされます:

compatible (p, Kx)
(節 S が表す命題 p は認識主体 x の知識 K と両立する=矛盾しない)


この分析をそのまま (b) にあてはめてみましょう.すると,インフォーマルには次のようなパラフレーズが成立します:

「雨が降る」の表す命題が田中さんの知識 Kt と両立するので,田中さんは傘を持っていった.
  →前提:「雨が降る」の表す命題 p が田中さんの知識 Kt と両立する


前提に注目してください.認識様相はあくまで田中さんの知識 Kt に相対化されているので,ここからは前提においても話し手が「雨が降るかもしれない」と認めているということはでてきません.したがって,これだけでは (b) で信念の矛盾を生じることが説明できないとわかります.だとすると,知識 Kx は田中さんと話し手の両方を認識主体としていないといけないということになりそうです.

 このへん,なかなか面倒な問題がありそうです*3


Contextualism in Philosophy: Knowledge, Meaning, And Truth

Contextualism in Philosophy: Knowledge, Meaning, And Truth

*1:Egan, Andy, John Hawthorne and Brian Weatherson "Epistemic Modals in Context," in Gerhanrd Preyer and Georg Peter (eds.) Contextualism in Philosophy, Oxford University Press, 2004.

*2:とはいえ,人によって容認度の判断が異なるかもしれません

*3:理由節の十全な分析では実践的推論なども考慮することになるでしょうし.