資料:killhiguchiさんに送ったメール(フルボッコにされる予感orz)


先日,このブログのエントリ「あの映画,面白いよ/面白かったよ」に関して id:killhiguchiさんからメール(宿題)をいただきました.それにお返事したところ,日本語の時制について,ぼくのメールを引用しつつエントリを書きたいとのご意向をうかがいました.

 どう考えてもフルボッコにされるフラグ満載なのですが,killhiguchiさんの時制論を拝読したい気持ちもありますし,どうせダメな文章ならさらしてご批判を頂いた方が勉強になるかと思い,この件を了解しました.

 以下,ぼくが送ったメールのみを転載します:

killhiguchiさん:


こんにちは.


メール拝読しました.
返信が遅くなりましてすみません.


また,はてなからの通知メールによると,
昨日14時頃に拙ブログにコメントをいただいていたようですが,
さきほどみたところ消えていました.
なにかのトラブルでしょうか.


さて,新しい方のメールでお書きのとおり,
過去時制を考える場合には述語のアスペクト特性を
考慮に入れた方がいいと思います.


以下,killhiguchiさんにとっては釈迦に説法かと思いますが,
あらためて記します.


静的な状態述語ですと,過去時制でありながら発話時にも成立している
という含みがあるケースとそうでないケースとがありますね:

「田中さんはさっき喫煙室にいた」
(a) 今もいる
(b) もういない
(c) 今いるかどうか不明

これは,状態述語の一般的な特徴のように思います.


一般に,非完結的な述語(状態・活動)は,成立期間に関して次の特徴をみせるようです:

状態の例:
「田中さんは1時間喫煙室にいた」

  • 伴立:「田中さんは30分喫煙室にいた」*1
  • 推意:「田中さんがいた時間は1時間を超えない」
  • 推意打ち消し:「実は,田中さんは3時間喫煙室にいた」(外側に拡張:1時間<3時間)

活動の例:
「田中さんは1時間散歩した」

  • 伴立:「田中さんは30分散歩した」
  • 推意:「田中さんが散歩した時間は1時間を超えない」
  • 推意打ち消し:「実は,田中さんは3時間散歩した」(外側に拡張:1時間<3時間)

このように成立期間 (interval) を外側方向に拡張できるのが重要です.


と言いますのも,過去時制の状態述語は,
"過去の期間において状態が成立していた"ことを明示的に表しますが,
この成立期間が発話現在まで拡張されるときに,
上記の (a)「今もいる」解釈が生じると考えられます.


金水敏「テンスと情報」(『音声と文法?』pp.55-97) は,
このことを裏側から「部分的期間の定理」として述べています.



他方で,完結的な述語ですと,伴立と推意が逆方向になります:

「田中さんは1時間で新大阪に着いた」

  • 伴立:「田中さんは3時間以内に新大阪に着いた」
  • 推意:「到着に要した時間は1時間を下回らない」
  • 推意打ち消し:「実は,田中さんは30分で新大阪に着いた」(内側に短縮:1時間>30分)

「田中さんは1時間でその小説を読んだ」

  • 伴立:「田中さんは3時間以内に小説を読んだ」
  • 推意:「読了に要した時間は1時間を下回らない」
  • 推意打ち消し:「実は,田中さんは30分でその小説を読んだ」(内側に短縮:1時間>30分)


推意の打ち消しが内側方向になっています.



過去時制+出来事述語の平叙文は,
ある出来事が過去の時点において culminate したことをあらわします.
このとき,発話現在までその時点を遅らせて解釈することはできません*2



いわゆるモーダルな「タ」が状態述語や「〜テイタ」形式などに限定される理由は
このあたりにあるとぼくは考えています.


ただし,状態述語と同じく非完結的でありながら
動的な活動動詞ではモーダルな「タ」がみられない理由は
別途に考える必要があります.
なぜ静的な非完結述語に限定されるのか,その理由は
時間に関する上記の推意からはでてこないからです.



以上のような時制・アスペクトが示す伴立と推意の規則性は
定延・金水の文献が強調している「体験」や「情報」の議論と相互補完的に
なろうかと思います.


すなわち,状態述語の認可する推意から考えて,
現在の状態に言及しつつ過去時制を用いるのはけっして不合理ではありませんが,
わざわざそちらを選択するだけの動機づけがないといけません.
その動機づけは体験や情報のアクセスポイント──過去の参照点──によって提供される
のではないでしょうか.


以上が,いわゆるモーダルな過去に関するぼくの基本的な見通しです.



さて,評価の形容詞の場合,ここに経験の時間という要因が加わって
事態がややこしくなっているのだと思います.
ここでいう経験とは,たとえば「あの映画は面白かった」では映画の鑑賞を指します.


(ブログでは整理して紹介するのが面倒だったので書きませんでしたが,
これを考えるきっかけになったのは ジャッケンドフが Language, Consciousness, Culture
第7章で提示している議論です.
時制と評価述語の相互作用は扱っていませんが,客観的/主観的のちがいを述べています.)



さらにややこしいのが,意味役割の微妙なちがいです:

  • 「あの映画は面白かった」…あの映画: stimulus
  • 「あの監督は面白かったのにねえ(いまはおもしろくない)」…あの監督: stimulus の産出者


「あの監督」が「いまはおもしろくない」と言うとき,そこで述べられているのは,
監督が産出する作品=stimulus がもはや面白くないということで,
この言明の背景には昔の作品・現在の作品についての評価があるように思います.


つまり,「あの監督は面白かった」の場合,過去時制が関連しているのは
作品鑑賞=経験の時ではなくて監督が作品を産出した時なのではないでしょうか.



ここまでの論点を整理しますと,以下の通りです:

  • 状態述語は成立期間の拡張を認可するため,過去時制でも現在の状態の成立を表しうること
  • 現在の状態に言及して過去時制を使う場合,過去の参照点がその動機を提供していると考えうること
  • 評価の形容詞では,さらに経験という要因が加わるらしいこと
  • 評価の形容詞で主語の意味役割によって過去時制の作用を受ける対象が異なるらしいこと


評価の形容詞+過去時制の意味論では,こうした要因が複合しています.
ぼくとしては,当該の現象をこうした(比較的に)単純な要因に分解し,
その組み合わせによって理解したいと思っています.



killhiguchiさんが書いておられる「事態の獲得」という概念は,
ぼくにはよく理解できていません.
できればもっとよく理解したいと思います.
ラネカーが "dominion," "epistemic control cycle*3" といった概念で考えていることに
関連しているのでしょうか.



長文になってしまいました.
とりこぼした話題もありますが,ひとまず以上をもってコメント・メールへのお返事とさせてください.

*1:「1時間散歩した」が真なら「30分散歩した」も真となります

*2:ただし,内在的な終端のない活動動詞では,開始点の達成が問題となるようです.

*3:メール本文での誤記です.ハズカシー