ひとまず最後のお返事として


テキストの理解と意図にかんしてしばらくkugyoさんと会話を続けてきました.ぼくの方からはとくに書くことがなくなったので,差し障りがなければ今回のお返事で一区切りつけたいと思います.

 以下,このエントリでは,kugyoさんが「optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには」で書かれた2点について返信をします.

1. 「けっきょく、コンパニョンは間違っている」について

繰り返しになりますが,作者の意図を考慮せずにテクストを解釈できるという主張は,「できる」という部分に限定を加えないかぎりは自明で意義のない主張です.次のkugyoさんのご発言も,「原理的には」正しいと思います:

原理的には、横書きの日本語で書かれたテクストを縦に読んだり(縦読み)、日本語として読まずに何らかの絵画として解釈したってかまいません(アスキーアート)。逆に言えば、絵画(の文字のように読める部分)を文学作品として読んだり、雲の形を見て神のお告げを読み取ったり、他人の言動から神のお告げを読み取ったりしたってよいのです。


条件が限定されないかぎりは,たしかに「できる」・「してよい」と言えるからです.

 しかしながら,「バージョン4」にまとめておられるコンパニョンの主張が反駁されているかどうかは,ぼくにはよくわかりませんん.「あの壁画の思考実験によって、ある場合においてコンパニョンの主張がふつうのひとにとっても受け入れがたいほど奇妙な帰結をもたらす」という部分がぼくにはよく理解できなかったためです.

 ですので,この点については判断を保留します.

2. 「無限後退」について

前回のエントリでは,ある発話の内容を現実について述べたものか虚構について述べたものか判別する際に話し手=作者の意図が考慮されるのではないか,ということを記しました.

 この点について,kugyoさんからは,(a) 意図が無限後退することと (b) 「汎反意図主義」は意図を考慮しないでいいのでそのような問題がないというご指摘をいただきました.

 まず,形式的には意図がいくらでも再帰的に入れ子にできることを確認しておきましょう:

1. [〜とSが意図することをHが認識する]
2. [ [〜とSが意図することをHが認識する]とSが意図することをHが認識する]
3. [ [ [〜とSが意図することをHが認識する]とSが意図することをHが認識する]とSが意図することをHが認識する]...


このように,[〜とSが意図することをHが認識する] はいくらでも繰り返し入れ子にできます.(前回のエントリで書いた意図 I1 と I2 はこういう再帰的な入れ子の関係ではないのですが,ここでは脇に置きます.)

 そして,じっさいに,グライスが提起した「話し手の意図」の議論では,最終的に意図が果てしなく増殖してしまう結果となっています.(なお,ぼくが知るかぎりですと,この問題に対してはスペルベル&ウィルソン『関連性理論』において「相互顕在性」による解決案が提示されていますが,詳述は避けます.)

 あるテクストを虚構のものとして聞き手/読み手が受け取るよう意図するのもこうした意図の一種ですから,kugyoさんがお書きのように無限後退の「容疑」はあるのかもしれません.

 さて,意図を考慮する場合にこうした難点があるとして,他方で「汎反意図主義」にはそうした難点がないと kugyoさんは書いておられます:

いっぽう、作者の意図を考慮しない汎反意図主義では、あるテクストを虚構のテクストであると受け取るかどうかについて、実用論的理由で決めることができます。ここで言う実用論的理由とは、作者の意図に関わるものでないからです――たとえば虚構のテクストであると受け取ると作者以外のだれかに殴られて痛い思いをしそうなのであれば、汎反意図主義者はテクストを真に受けようとするでしょう。そういうわけで、汎反意図主義は無限後退に陥らずにすみます。


「実用論的理由」(e.g.利害)によって現実/虚構の解釈を選択するかぎりにおいて,意図は考慮しなくてよいというわけですね.kugyoさんは,作者の意図を考慮してもしなくてもいいと考えておられるわけですから,これをまとめると次のようになります:

任意のテクストを現実/虚構のいずれとして受け取るか決めるときに;
(A) 意図を考慮する
(B) 意図を考慮しない→実用論的理由(利害)を考慮する


 これが「〜すべき/〜してよい」という「主義」であるかぎりは,ぼくはとくに賛成も反対もしません.

 ですが,現に人々がそうしているという主張であるなら,かなり疑わしい説だと思います.

 無限後退の難点を避けるとすれば,「汎反意図主義」はつねに意図を考慮しない方を選ぶことになります.すると,「意図を考慮してもしなくてもいい」というのは,実際には「意図を考慮しない→実用論的理由(e.g.利害)を考慮する」に限定されます.つまり,「汎反意図主義」は人々はテクストの理解において書き手の意図をつねに考慮していないという主張をしていることになってしまいます.ですが,この帰結は実態に合っていません.

 そうではなく,場合によっては意図を考慮しているのだと考えるのでしたら,ぼくと同じく意図の無限後退に向き合うことになります.

むすび

以上,簡略ですが kugyoさんの論点2つにお返事をしました.

 kugyoさんからごらんになるといたらぬ点がきっとあるだろうと思いますが,あらためて要点を記すなら,「汎反意図主義」はいまのバージョンでは事実の理解として正しくないとぼくはみています.「べき」論であれば,賛成も反対もしません.

 こちらのつたない議論におつきあいいただき,kugyoさんにはたいへんお手間を取らせてしまいました.これまでトラックバックに応答してくださり,ありがとうございました.こちらからはひとまず今回で締めくくりたいと思います.このエントリで不備な点がありましたら,あらためてお返事します.