アームソン「文学」の訳について2カ所ほど私見を


kugyoさんが J. O. Urmson "Literature" ので少し苦心しておられる箇所について私見を記します.コメント欄に記すにはやや長いのでこちらに記しておいてトラックバックを送ります.

脚注の *4 が付いている箇所の訳:

どうやら「モナリザ」は普段ルーブルの壁に掛かっているあれとはちがうらしいということを理解するのにも,哲学的な洗練が必要となる.
(It requires philosophical sophistication even to understand the suggestion that the Mona Lisa is not something usually can be found hanging on a wall of the Louvre.)


この "suggestion that S" は「示唆」や「提案」ではなくて,「〜であるらしいとうかがわれること」です.これは動詞 suggest の下記のような用例を想起していただくとわかりやすいように思います:

  • His conversation suggests a man of wide culture. 話しぶりから広い教養の持ち主であることがうかがえる.
  • The seagulls suggest that land is not far distant. カモメが飛んでいるので陸地がそう遠くないとわかる.

(新英和大辞典第6版)

thus を含む箇所:

この文脈での thus の訳は「たとえば」がよいかと思います.

この〔音楽家は指定を創り出すという〕見解は,他の通説より妥当なように思える.たとえば,〔通説のように〕音楽作品は演奏の集合だと考えると,作曲家はそういう〔演奏の〕集合を創り出したのだと言わなくてはならなくなる──こういう考え方は,演奏されたことのない作品を考えたときにはとくに困ったものとなる〔このような点で,「演奏の指定」説は「演奏の集合」説よりも優れている〕.Wolheim らは創作家が創り出すのはタイプであると言い,また Stevenson はそれはメガタイプだと言うのだが,これにも難点がある.トークンが生じる以前にタイプやメガタイプが存在しうるというのは,理解しがたいのだ.
(This view seems more plausible than others that are current. Thus, to say that a musical work is a class of performances requires one to say that the composer created such a class - a view which becomes especially uncomfortable if we consider an unperformed work. The suggestion of Wollheim and others that the creative artist creates a type, and Stevenson's view that he creates a megatype, also cause discomfort. It is hard to see how there can be a type or a megatype before there are any tokens.)


thus の意味について註釈をします.《「演奏の指定」説は「演奏の集合」説より妥当である》ということは,その帰結として,前者には具体的にいくつかの点で優れている部分があるわけですね.このとき,「一般的な言明→帰結としてその具体的なケース」という論述の進み方を thus(たとえば)という標識を使って表しています.2つ目のセンテンスをみていただくと,ここには通説の問題点が述べられているのがわかります.裏返せば,そうした問題点がないことが「演奏の指定」説の長所であることになります.

表現のオントロジー

余談ですが,このアームソンの文章で書かれている内容は溝口理一郎『オントロジー工学』の§7.2 と関連づけてみると面白いように思いました*1.その一端として,下記の2パラグラフを引用します:

人工物や手続きなどの記述にかかわる行為には設計行為と製造行為という2種類の行為があることに注目する.上記の八つはいずれも何かを作り出している点では皆同様である.しかし,同じ創造的活動ではあるが,設計と製造という観点から眺めると前の四つ〔手続き(計画),楽曲,戯曲,文字〕と後ろの四つ〔小説,詩,(書道の)書,絵画〕の間の相違が明らかになる.すなわち,手続きの考案,作曲,戯曲の創作は設計行為であり,絵画,小説の創作は製造行為ということができる.なぜなら,作曲の場合は,楽譜にその楽曲がどのような音の系列であるかを記述して,演奏家はそれを「仕様」[specifications] として(耳に聞こえる)音楽を製造しており,戯曲では,作家が作った戯曲(台本)を仕様として演じることによって(目に見える)演劇を製造(実現)していると考えることができ,それは通常の人工物の設計・製造過程と完全に対応がつくからである.いい換えれば,楽曲には作曲という設計行為と演奏という製造行為があるが,絵画には描画という製造行為しか存在しないということになる.


 もちろん,前者のグループの行為を,仕様というものを作っている(製造している)とみなすことができる,そこに設計行為と製造行為の二重性がみられる.しかし,そこで製造されるものはあくまでも「仕様」であり,次に続く製造行為や実施行為への入力として不可欠な情報であると考えることが適当である.楽曲は作曲家が「設計」した演奏家への仕様であり,手続きは手続き発案者が「設計」したプログラマ(人間)への仕様である.小説や絵画はそれぞれ小説家や画家が「製造」した製造物であるが,絵画が製造物そのものに価値を見いだすのに対して,小説は書かれた文章そのものではなく,それが意味する内容に価値を見いだす点が大きく異なる.両者の差は微妙であろうが,絵画と同様の製造物は,小説では文章そのもの,あるいは文体に見いだすことができることを考えれば,上述の相違点が妥当であることが理解されよう.

(溝口理一郎『オントロジー工学』オーム社,2005年,pp.126-7)


オントロジー工学 (知の科学)

オントロジー工学 (知の科学)


ともあれ,じぶんには縁の薄いトピックですので,kugyoさんの訳文で勉強させていただきたいと思います.

*1:奇しくもアームソンの文章に「文学的作品の存在論的地位」とありますように,問題にしているのは両者とも基本的に同じことだと思います