kugyoさんの「応答」への応答


おとついのエントリ「kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分)」に対して,kugyoさんから応答 (1) と応答 (2) にわけて丁寧なリプライをいただきました:

optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から


こちらから一方的に提案をしたにもかかわらず,こうして応答を書いてくださり,感謝します.

 以下,この「応答」について思うところを記します.


 まずは,あらためて確認事項を:ぼくはkugyoさんの主張の方向に同意しています.ただ,それを支える論証にはいくぶん難点があり,あらたに「文/発話」といった概念的な区別を導入すると有益ではないかと考えています.今回のこのエントリでも,若干の問題点をあらたに指摘したいと考えます.

 では,応答 (1) と (2) を順番にとりあげていきましょう.

応答 (1) について

 まず,応答 (1) の要旨をまとめると次のようなものです:

応答 (1):(a)「文」にも意味があるし,文の意味を理解するのに意図は不要(その点で絵の例とおなじ);(b)絵について言えることが言語文についても言える.


この応答 (1) そのものは正しいと思います.ですが,文学テキストに意図が不要との主張で問題となるのは文ではなく発話ですので,これでは文学テキストに意図が不要との主張を支えるものにはなりません.これはkugyoさんも註記しておられるとおりです:

上記の反論が成功していたとしても〔中略〕「提案」の3点め「発話に関しては話し手とその意図を考えなくてはいけない」が残っているかぎり、私はまだ文学テクストの解釈についての反意図主義を擁護することに成功したとは言えません。


ですので,この応答 (1) はぼくの説明不足な点を補足していただいたものであり,議論の主眼を左右するものではないと考えていいでしょう.なお,この主眼についてはぼくも同意しています.

 それでは,以上を踏まえて,もともとの提案をもっとハッキリした形にしておきましょう:

提案 (A):“文学テキストに意図が不要との主張を論証するときには,言語的な発話(としてのテキスト)を例に考えよう”


なお,kugyoさんはフレーゲの 意義 (Sinn)/イミ (Bedeutung) の区別を導入しておられます(飯田隆言語哲学大全Ⅳ』でいうと「意味論/ポスト意味論」の段階 (pp.361-5) にそれぞれ対応);この区別でもいいのですが,言語学的な意味論・語用論で広く流通している区別でいうと「文の意味/発話の意味」という区別が有用かと思います:詳しくはこちらを参照してください.

応答 (2) について──“正しすぎる”ゆえに経験的内容にとぼしいのが問題では?

 次に,応答 (2) は次のように要約できます:

応答 (2):(a)意図の帰属はつねに虚構であり,かつ,(b)恣意的(べつに人間ならぬ「キーボード」や「舌」に帰属させてもいい);(c)ただ,実際には「プラグマティックな原因」により(特定の)人間に帰属させている.


念のため,それぞれに対応する文章を引用して,これを確認しておきましょう:

「発話の意図は、つねに虚構のものである」と結論づけたいと思います。

発話レベルにおいて、現実の意図と虚構の意図との区別は恣意的にしかできず、またそうであってよい。

我々は現に、ふつうの発話についてはそうしゃべっているひとにその意図を帰属させているじゃないか、という再反論がありそうです。これについては、プラグマティックな原因を指摘すればよいでしょう。つまり、そうすることで利益を得られるから、ふつうはひとに意図を帰属させているだけなのです。


 さて,この応答 (2) で kugyoさんはこのような例をあげておられます:

ここで、私が前記事で行った、あの壁の絵の思考実験が役に立ちます。思考実験の最後の例で、白いペンキの一撃のために、チャーチルの似顔絵のかわりに「私たちはコッペパンがほしい」なる巨大な文字列が出現したとしましょう。このとき「コッペパンがほしい」という意図を持つのはだれでしょうか? 監督者でしょうか、一団の人々でしょうか、それとも(文字を読むこともできない)無学な盗賊でしょうか? それら全員の集団? あるいはペンキ? 思考実験をたどりなおした方にはおわかりのとおり、この意図にはだれに帰属させるべき理由もありません。


うっかりペンキがぶちまかれた結果,「私たちはコッペパンがほしい」という文字列が描かれた場合を考えてみると,意図の帰属が問題にならない,というわけですね.

 この主張は正しいと思います.ただ,トリビアルに正しいのが問題です:この「私たちはコッペパンがほしい」には,そもそも発語内効力がないのです.意図の帰属が問題にならないのはこのためです.

 この点をはっきりさせるには,次の例をあわせて考えるといいでしょう:

例 (1):ぼくはフランス語の勉強をしていて,いっしょうけんめいに書き取りをしている.ノートに文字が書かれる:"Ce sont des jeux; il faut d’abord répondre."

この例において,ぼく(恥ずかしながら実在しております)はフランス語の文をつづっているのですが,この平叙文の発話(書記)においてなにかを確言しているわけではありません.つまり,「書く」という行為は意図的であるものの,発語内行為はまったく意図されていません.もちろん,読めば文としての意味はわかるでしょう.しかし,発話としては無意味です.

 kugyoさんの例もこれと同様です.「私たちはコッペパンがほしい」という文字列を誰かに帰属させなくてかまわないのは,そもそも状況設定により発語内行為がなされていないからです.読めば文としての意味はわかりますが,発話としては無意味です.

 もし,ペンキで描かれたこの「私たちはコッペパンがほしい」を要求の言語行為と受け取ったとしたらどうでしょうか?たとえば誰かがこう訊ねます:「やあ監督,きみらコッペパンがほしいんだって?」──しかし,現場監督はとうぜん否認するでしょう:「いや,ぼくらはべつに欲しくないですよ」 意図が存在すると想定されるなら,その意図をだれに帰属すべきかという問題がでてきます.

 このことからわかりますように,次の2つを区別しなくてはいけません:

  • (a) 意図が存在しないので帰属の問題が生じていない(意図の不在)
  • (b) 意図は存在するが誰に帰属させてもかまわない(帰属の恣意性)


kugyoさんが論じておられるのは (b) なのですが,挙げておられる例は (a) の方ですね.よって,この例は応答 (2) の主眼には関連をもちません.

 では,上記の区別を導入した上で,kugyoさんが提唱しておられる「実用論的汎反意図主義」の内容をもっとはっきりさせてみましょう:

「実用論的汎反意図主義」(revised):
特定の発語内効力をもつ発話について,(a)その発語内の意図はつねに虚構であり,かつ,(b)誰/何に帰属させることも可能である;(c)ただし,通常はプラグマティックな理由により特定の誰かに帰属される.

このうち (c) は補足であり,kugyoさんの主張のポイントは (a-b) にあるようです.

 しかし,(b)“誰/何に帰属させることも可能である”(恣意性)との主張は,有意義なことをなにも言っていません:ここでいう可能性がたんなる論理的な可能性だからです.

 たとえばkugyoさんはこう書いておられます:

しかし、なぜひとに意図を帰属させなくてはならないのでしょうか? たとえば、そのひとの舌が意図を持っており、「私はコッペパンがほしい」はその舌の意図だとは、どうして考えられないのでしょう? あるいは、その発話がチャットでキーボードを介して行われたのだとしましょう。その意図をキーボードに帰属させて、どうしていけないのでしょうか? ほんとうはネットの向こうでそのひとは寝ていて、不気味にもキーボードだけがカタカタと動いているかもしれないのに? あるいは、そのひとは意図を持たないロボットか、あるいは哲学的ゾンビかもしれないのに?
(強調はkugyoさんのもの)

「舌」・「キーボード」・「ロボット」・「哲学的ゾンビ」が意図をもつ──こうしたことは,概念に矛盾がない,仮想であってもとにかく思考できるといった意味において可能です.ちょうど,太陽の周りをまわるティーポットの存在が論理的には可能であるのとおなじようなものですね.逆に論理的に不可能なのは「角が2つしかない三角形」のようなものくらいです.こうした論理的可能性を,それじたいとして否定するひとはいないでしょう.たいていの人が知的に関心をもっているのは,はてしなく広い論理的な可能性から現実的に考えうる範囲までどうせばめられるか,という点なのですから.

 テクスト理解における意図の議論においても,そういった論理的可能性は当然に共有前提となっています.ですから,(b)“誰/何に帰属させることも可能である”(恣意性)は主張としては意義がありません.

 つづけて,(a)その発語内の意図はつねに虚構であるという部分を検討してみましょう.

 kugyoさんはこう書いておられます:

我々はふつう、ある発話の発話者(意図を帰属させるべき相手)をひとだと考えますが、それは恣意的な幻想、すなわち虚構だということです。ある文字列がだれか他者の意図的発話を現実に構成しているかどうかを、我々は原理的に判断できません。我々はつねに、仮想的にごっこ遊びとして、その文字列がある他者の意図的発話を構成しているかのように受け取るだけなのです。ひとではなく舌やキーボードに意図を帰属させることを阻む必然的な理由はなにもないのです。

これによりますと,発話の(発語内的な)意図は,実在する作者や話し手に帰属させるにせよキーボードに帰属させるにせよ,それを排除する必然的な理由はない(i.e., 論理的に可能)という意味において「恣意的な幻想」すなわち「虚構」であるとkugyoさんは考えておられるようです.

 すでにお気づきかと思いますが,ここでいう「必然的な理由」もまた「原理的」もしくは論理的な必然性です.たしかに,キーボードに意図を帰属するのを論理的な必然として排除すべき理由があると考える人はいないでしょう.ですが,そうであるだけにこの部分もまた経験的な内容にとぼしくなっています:議論の当事者でこの (a) を否定する人はいないでしょう.

 以上より,「実用論的汎反意図主義」のうち (a) と (b) は自明に正しく,そうであればこそ主張としては意義がないと考えられます.では,「実用論的汎反意図主義」からこれら (a-b) を削除してみるとどうなるでしょうか?

「実用論的汎反意図主義」(revised + revised):
特定の発語内効力をもつ発話について,その意図は (c)通常はプラグマティックな理由により特定の誰かに帰属される.

ぼくならこうした主張を「言語行為論」とよびます.(そして,語用論研究者が苦心しているのは,“プラグマティックな理由・条件”が具体的にどんなものかをつきとめることです.)

提案 (B):論理的な可能性ではなく経験的な蓋然性を!


以上,kugyoさんからいただいた応答 (1) と (2) について検討してきました.否定的な書き方をしていますが,ぼくも kugyoさんが言わんとしておられる主張にはほぼ同意しています.かんたんに書きますと,このようなものです:

ぼくの考え:

  • 基本的に文学テキストでは実在する作者の意図を考えなくてもいいけれど,通常の場合,テキストを理解するにはその虚構の語り手の意図を考えないといけない.(前回のエントリ参照)
  • 文学にかぎらず発話全般について言うと,ごっこあそびなどのように話し手/語り手を虚構とみなせるケースもある(これも前回のエントリ参照).でも,虚構の話し手/語り手のアイデンティティが発話理解に無関係であり,実際的な水準において恣意的であってかまわないというわけではない.*1


しかし,これについてはまた別の機会に記すことにしましょう.

*1:たんなる論理的な可能性としては恣意的でありうるとしても