kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分)


2008-07-01追記:案の定,下記の文章にはずぼらな点がありました.kugyoさんが指摘してくださっていますので,そちらもあわせて参照願います.


id:kugyoさんがとても思考を喚起する文章を書いておられます:

首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する」 - kugyoを埋葬する 2008-06-30


この文章は,アントワーヌ・コンパニョン『文学をめぐる理論と常識』*1を批判しつつ,「私たちは作者の意図を想定することなしに、文学テクストを読むことが可能である」という主張を論証するものです.

 この主張はおおむね正しいとぼくも思いますが,論証に問題点が2つあります:

  • ひとつめ.「反駁(2)」で論拠として提示している例が言語ではなくて「チャーチルの似顔絵」という視覚表現であること.
  • ふたつめ.文と発話(文の個別的使用例)が区別されていないこと.


これら2つの問題があるため,kugyoさんの主張は十分に論証されないままとなっています.

 以下,問題点について説明し,その補強をはかります.


 kugyoさんは,作者の意図を考慮しなくても表現を解せることを示すのに,(パトナムを引きつつ)偶然にできあがったチャーチルの似顔絵を例にだしておられます:すなわち,蟻が浜辺を歩き回っていたら偶然にチャーチルの似顔絵ができあがってしまったというケースです.このとき,人が描いたのなら似顔絵を構成するけれども蟻の足跡が偶然にそういう模様をつくったのでは似顔絵という表現を構成しないと考えるのはおかしい,とkugyoさんは述べます:

いま、蟻が浜辺を歩いた跡の隣に、あるひとがチャーチルをほんとうに表現しようと思ってチャーチルの似顔絵を描いたとする。あとからやってきたひとは、その2つの絵を見分けられない。そこであとからやってきたひとは、両方をチャーチルの似顔絵と考え、チャーチルを表現したものとして、数々の言明をなす。ところが、蟻がつけた跡についての言明は、ひとが描いたほうと異なって、つねに空虚に真であることになってしまう。これは奇妙な帰結ではないだろうか。


たとえば,これをみた人が「この似顔絵はこの口元があまりチャーチルらしくない」といったコメントをしたとして,人が描いたのならまっとうな言明となるけれども蟻の足跡では空虚となるというのはおかしいのではないか,というわけですね(なお,ここで似顔絵により表象される「チャーチル」が現実の人物である点に注意してください:議論の範囲が文学=虚構に限定されていません).

 この議論自体は妥当だと思います.ですが,似顔絵(にみえる模様)について言えることが言語にも言えるという前提がなくては,文学テキストについての主張の根拠にはならないでしょう.そして,その前提は成り立たないのです(後述).ですので,あくまで言語を例に議論する必要があります.

 kugyoさんはこの点の議論をしておられないので,不肖optical_frogがその論証を試みることにします.

 いま,チンパンジーのソースケ君がキーボードをカタカタと叩いた結果,画面上に次の文字列がでてきたとします:

(1) 「私はコッペパンを要求する」


さらに,次の自明な仮定をおきます:

(2) 仮定:「私はコッペパンを要求する」は適格な日本語の文である


以上より,ソースケ君がタイプした文字列 (1) は適格な日本語の文です.この点は,ちょうど,チャーチルの例とパラレルですね:ソースケ君の意図をまったく考慮に入れなくてすみますし,「この文の主語は一人称だ」などとコメントを加えることも可能です.ですから,以上より,「(1) が日本語の文であるためには話し手の意図は不要だ」が導かれます.

 ですが,ここで絵と言語のちがいが決定的となります.

(3) 問題: (1) の〔発話〕意味はどういうものでしょうか?*2


もし,現実に「私」=ソースケ君がコッペパンを要求していると聞き手が解釈するなら,そこから様々な現実の帰結がでてきます:

(4)
a. ソースケ君は日本語がしゃべれる(と聞き手は信じている)
b. ソースケ君はコッペパンを食べたいと思っている(と聞き手は信じている)
c. 聞き手はこの要求に応じるか拒否するかの選択を迫られている(と聞き手は信じている)
... etc.


こうした帰結が不合理だと考えるなら,現実にソースケ君がコッペパンを要求しているという解釈を聞き手はとれません.(べつに (4) は不合理でないと考える聞き手がいてもいいのですが,それはここでの議論を左右しません.)

 では,次のようなケースではどうなるでしょうか?

(5) ソースケ君は (1) をタイプし,これを聞き手はソースケ君がコッペパンを要求しているという意味にとるが,本当にそう要求していると思っているわけではない.聞き手はソースケ君に向かって言う,「そっかぁ,お前コッペパンが欲しいのかアハハ♪」


こちらは,ソースケ君が意図的に発話したかのように聞き手がふるまうケースです.聞き手は本当に要求がなされたと思っていません.ただ反実仮想として,ソースケ君が (1) を意図的に発話したならそう解釈されるであろうと想像し,一種のごっこあそびとして「そっかぁ,コッペパンが欲しいのかアハハ♪」と発話しているのです:このとき,ソースケ君の意図は虚構にすぎません.

 以上のように検討してみますと,次の3つを区別した方がいいとわかります:

(6)
a. 文レベル:タイプした文字列 (1) が日本語の文を構成している:意図不要(チャーチルの似顔絵に対応)*3
b. 発話レベル:文字列 (1) がソースケ君の意図的発話を現実に構成している:話し手の意図は聞き手にとって現実のもの
c. 発話レベル:仮想的にごっこ遊びとして,文字列 (1) が意図的発話を構成しているかのように受け取る:話し手の意図は聞き手の虚構


kugyoさんの議論では (6a) の水準(「文」のレベル)だけが考慮されていました.ですが,すでに明らかなように,じっさいには (6b-c) の水準(「発話」のレベル)を考慮してあげないと,言語的なテキストに意図の想定が必要かどうかを議論できません:文学テキストであろうとなかろうと,一般に文の成立には意図が不要だからです.

 提案の要点を繰り返しておきます:

  • 「反駁(2)」での例が言語ではなくて似顔絵なので,主張が十分に支持されない→“言語を例に議論しよう”
  • 一般に文の成立に話し手の意図は不要
  • 発話に関しては話し手とその意図を考えなくてはいけない→“文/発話を区別しよう”
  • 場合により,発話の意図は虚構のものであってもかまわない→“現実の話し手/作者の意図が必要でないケースがある”


 それでは,発話の水準を考慮した場合,文学テキストに作者の意図の想定が不要と言えるでしょうか?

 ぼくの現時点での答えは「言える」です(kugyoさんが言わんとしておられたのと同じ結論ですね).これは上記の要点に明らかではないかと思います.ただし,限定がつきます:現実の作者 (author) の意図は必ずしもなくてかまわないのですが,虚構の語り手 (narrator) については意図を想定してあげないといけません──もっとも,これはぼくなどがkugyoさんに言うようなことではありませんよね(^^;)

 ことばが足りないところがあるかもしれませんが,とりあえず以上です.



2008-07-01追記:いま気づきましたが,上記で書いた内容はサールせんせいの「話し手によるフリ(pretence)」説をひっくり返した「聞き手によるフリ」説になってますね.

*1:いや,ぼくは読んでませんが

*2:2008-07-01追記:ここは「文の意味」 (sentence meaning) から区別して「発話意味」 (utterance meaning) または「話者意味」(speaker meaning) はなにか,というべきでしたね

*3:2008-07-01追記:これも大雑把な対応:記号の分類としては,文はシンボル,似顔絵はアイコンですので,厳密に対応するわけではありません