ココロに「ようわからん」タグとか「態度保留」タグを用意するのはいかがでしょう:小心な権威主義者(=ぼく)の場合


TAKESANさんが「違い」というエントリで「重要なのは、合理的・論理的であるからといって、即、それが科学的である訳では無い、という所かと思います」と書いておられ,これに moharizaさんが次のようにコメントしておられます(dlitさんの「出会ってから調べてみる」経由):

Interdisciplinary: 科学的、合理的、論理的」も読み、なるほど、
<「合理的」な思考であっても、「科学的」では無い。>との論が分りました。

素人は自分で合理的、論理的思考で納得させられても、「科学的知識」が十分でなく、抜けている要素が多く、だまされやすいと云うことでしょうか?

だまされない為には、幅広い(科学的な)視野(知識)が必要となり、それは、素人の雑学程度では、不十分と云うことでしょう。
深い科学的な知識は、普段のテレビ等の流すマスコミの情報では、片手落ちで(マスコミ<記者>の思い込み等で、誤った情報を流すこともあり、)注意しなければならず、自身で勉強するにも限られて来るような気がします。

その為には、素人はどのように対処すれば良いのでしょうか?

普段から森羅万象に疑問を持ち、知識を吸収する努力をし、深い思慮を持ち、惑わされないよう、自分の考えを持つこと(疑念を持つこと?)からしか、無いような気もしますが…。


ぼくはものを知らず頭のとろい人なので,「だまされないためには多くの知識が必要なのか?」という問いは身近に感じます.

 この疑問へのぼくなりの答えはこうです:「ニセ科学の大部分はいくつかの条件でフィルタリングできるし,はじききれない分についてはひとまず態度保留しておけばいいかも」

 まず,「だまされる」とはどんなケースか,考えてみましょう.たとえば,「この薬を飲むと痩せられる」という話に接したとします(この売り文句からしてアレな感じですが,そこは大目に見てください).このとき,じっさいにはそんな効果はないとして,

(a) 本当に効果がある(&安全である)と信じる

さらには

(b) その薬を買う

というのが「だまされた」ケースに該当するでしょう.多くの場合,(b) に先だって (a) がクリアされているはずですから,「だまされない」とは「本当だと信じない」ことです.

 ここで,「本当だと信じない」は「間違いだと考える(見破る)」ほど強い態度でない点に注意してください.「信じるかどうか保留する」のも「本当だと信じない」に含まれます.

 ですから,「だまされない」ためには態度保留で十分です.ぼくは無知で頭のよろしくない人なので,じぶんの専門分野ですら真偽の判定ができないことが多いです……(´・ω・`)


 では,どんな場合に「態度保留」タグをつけたものでしょうか.

 まず,態度保留にすら値しないものをはじきます.一般に科学っぽい情報に接したとき,少なくとも次の3つにひっかかっていれば,本当だと信じないではじいてしまった方がいいですよね:

  • その真偽を保証しているのはしかるべき権威か(しかも幾重にもおよぶチェックを経たものか)
  • 経験的なデータの裏付けがあるかどうか
  • 論理的な整合性はあるか


なお,最初の条件については,「それは権威からの論証ではないか,許せる!──じゃなくて許せん!」という意見もあるかもしれません.ですが,これはあくまで保留するための条件であって正しいと受け入れるための条件ではありませんので,これで事足ります.関連する公的機関や専門家のチェックを何重にもクリアしているものは,間違いである可能性は残っているにせよ,ニセ科学ではありません.(それどころか,ぼくは頭痛薬をよく買うのですが,データの裏付けなんて考えたりしないで「薬局にならんでる製品なら大丈夫だろう」ぐらいの甘さで買っています.ひどいものです)

 しかし,「水からの伝言」のようなものはこれであっさりはじかれます.どこが間違いと指摘することはできないことも多々あるかもしれませんが,だまされることはありません.*1

 他方,これらの条件のうち最初のものを除く2つをクリアした情報には「態度保留」タグをつけます.このタグがついたものはとりあえず事実として受け入れないというようにすれば,だまされないですみそうです.

 ですが,すでにお気づきのように,ぼくのようなボンクラですと,世の中の科学っぽい情報にはあらかた「態度保留」タグがついてしまいます.でも,それで問題になるケースがどれくらいあるでしょうか.言い換えれば,科学っぽい情報に関して「態度保留」から「間違いと考える」または「正しいと考える」にシフトしなければならないケースは,どれくらいあるでしょうか.

 たとえば,さきほどの「やせ薬」のケースであれば,態度保留にしたからには購入に踏み切ることはふつうないはずです.ただ,よほど切実な事情があって藁にもすがりたくなっているときには,購入を検討したくなるかもしれません.そのときには,あらためてその薬の情報をもっと集めてみればいいでしょう(dlitさんが書いておられるのはこの段階ですね).調べてみてやっぱりニセ科学らしいようなら手を出さない方が賢明でしょうし,権威の保証はないがはっきりとニセ科学とまでは断定されていないようなら,分の悪そうな賭けをするかどうかの判断をすることになります.たいていの場合,その賭けはハズレとなることでしょう.ですが,分が悪いと自覚した上で賭けをやってまちがったのなら,たしかにだまされたにはちがいないとしても,多くのギャンブルがそうである程度に「だまされた」のです.


 もっとも,おそらくみなさんには上記のことは言わずもがなの話で,どちらかというと「合理的であるからといって必ずしも科学的ではない」という話題やマスコミなどで流される科学情報をどれくらいの信頼度で受け入れるか(それにはどれくらいの知識が必要なのか)といった問いの方が大事なのだと思いますが,それはまた別件で.


同日追記

 そういえば,こんな話題でこそ,せっかく訳したSFAAに言及しない手はありませんw

第12章「心の習性」−批判的に受け止めるスキル,『すべてのアメリカ人のための科学』


文部科学省版 (PDF) ですと,本文のページ番号で pp. 144-5(ファイルのページ番号では pp. 160-1)にあたります.

2008-05-06追記

 ありうべき誤解について2点ほど.

 一つ目.ここで考えているのは,「ニセ科学だまされないようにするにはどうしたらいいだろう」ということです.一般に他人にだまされない方法は考えていません.たとえば,「ちゃんと返すから1万円貸してくれ」という友人の言葉を信頼できるかどうか,といった事柄は科学/ニセ科学の問題設定とは別ものです.

 二つ目.また,何でも態度保留すればよくて科学知識が不要だという趣旨でもありません.もちろん,マスメディアなどの科学報道を批判的に受け止めるには関連する知識があった方がいいですし,知識の水準があがればその分だけ当該情報の信頼性を正確に判断できるようになりますよね.ただ,そのような志の高いことの前に,まずは科学情報について判断するときに真偽判定の他にも態度保留という選択肢があることをあらためて考慮に入れるのはいかがでしょうと提案したのがこの文章です.

 とはいえ,本エントリの内容が単純かつ雑駁に過ぎるのはたしかです (^^;

 追加情報です.言及先のTAKESANさんのブログに,「どっちか、じゃ無くて、どっちも」という関連エントリが追加されています.下記のご趣旨に賛成です:

ニセ科学にしても悪徳商法(こちらについての知識はほとんど持っていません)にしても、よく解らないものについては措いとく、というのが重要ですよね。でも、「よく解らないというのを”解る”」には、それなりに考えていなければならない訳です。実際、展示会に行った時の私は、絵がそもそも適正価格ですら無いなんて所は、ほとんど考える事すら出来なかったのですから。

なかなか気付けないんですよね、知識無いと。

だからね。

「知らせる事そのもの」も、重要なんだと思うんですよ。色々なパターンを示していく、というね。ちょっと調べたら情報が出てくる、という状況を作る事が。


 また,文中で言及した dlitさんからトラックバックをいただきました.おそれいります.


追記おわり

*1:どうもニセ科学にはまるかどうかはたんなる知識の問題ではないように思います