macskaさんの文章のどのへんをぼくはミスリーディングと思ったか


[2008-05-07追記あり


macskaさんが,「米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望」と題する文章を書いておられます. この文章は,近年アメリカで増加しつつある「新しい無神論者」について,その不寛容な側面を指摘したものです.

ぼくは,この文章には無用な印象操作がありミスリーディングであると「はてなブックマーク」にコメントしました(文末の引用A参照).類似のコメントは他に2つほどついています(文末の引用B参照).macskaさんは,このようなコメントについてそのような意図はないと述べておられます(文末の引用C参照).

きっと,印象操作の意図がないのはほんとうなのだろうと思います.そこで,ぼくがこの文章のどの辺を印象操作のように思ったかを記したいと思います.macskaさんや他の方の参考にしていただければ幸いです.

さて,疑わしく思った点はいくつかありますが,いちばん具体的な例は記述語の選び方です.新しい無神論者たちを地の文で記述するとき,もっと中立的な表現があるはずなのに宗教的な含みのある表現を選択しておられる箇所があります:

(a) 無神論者たちのミーティングについて,「信仰共同体的なものを求めている人は多い」と書いておられます.ですが,その後の文を見ますと,彼らはたんに人との交流・つきあいの場を求めているだけのようです.何か「信仰」というべきものがあるのでしょうか.ないのならこう書くべきではなく,あるのならどういう信仰なのか説明した方がよいでしょう.

(b) 無神論者たちに「ユートピア思想と選民思想」がみられると書いておられます.前後から考えて,「ユートピア思想」とは理性的アプローチ(証拠と論理の尊重)によって問題解決をはかる態度(「理性こそ世界のあらゆる問題に対する答えなのだ」)であり,「選民思想」とは無神論者たちが信仰者たちに抱いている優越感を指しているとぼくは解釈しました.この解釈でよいとして,それならどちらも「理性尊重」や「信仰者への優越感」とでも言えばよいのではないでしょうか.macskaさんがお使いの表現はおおげさで,しかも余分な含意をもっているのではないでしょうか.

まとめてみましょう.それぞれの対で,前者は macskaさんの記述,後者はその代替案です:

  • 「信仰共同体」 : 「人との交流」
  • ユートピア思想」 : 「理性の尊重」
  • 選民思想」 : 「優越感」


前者はいずれも大なり小なり宗教的な含み・連想をもっており,しかもそのような含みは論旨や文脈からみて不要なはずです.そのため,ぼくはこうした記述語の選択は「無神論もまた宗教」との印象を与えようとする操作ではないかとの疑いをもったのです.さらに当惑することに,「このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない」といった文も書いておられます.

しかし,幸いに macskaさんはそのような印象操作の意図を否定しておられます.ぼくの指摘が正しく,かつ,macskaさんが無用な印象操作・ミスリードをさけようと考えておられるのであれば,解決はとても簡単です:文章の当該箇所をもう一度推敲されたらいいと思います.


とりあえず以上です.ぼくに元気があれば,もうちょっと続けるかもしれません.


追記

macskaさんが「ひきつづき「新しい無神論者」エントリへのコメントにお応え」と題して,a-geminiさんのコメントおよび拙文にリプライしておられます.

これによりますと,「信仰共同体的なもの」とは,無神論者たち(の一部)が「信仰者であった頃、あるいは少なくとも無神論者であることを公にせず信仰者のふりをしていた頃、信仰共同体に属することによって得ていたもの」と説明しておられます.ですが,「信仰共同体的なもの」=「信仰共同体に属することによって得ていたもの」では,定義が不明瞭です.また,もともとこれを例示するのに挙げられているのは,下記でした:

それはたとえば他の人たちとの出会いと交流の場であり、同じ共同体の成員として経験する一体感・高揚感であったりする。このグループの呼びかけ人である五十代の男性は、「もしいまこのグループがなければ、みんながここに来てくれていなければ、自分は教会に戻っていただろう」とまで言っていた。

(「米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望」;強調引用者)


ぼくならば,「信仰共同体的なもの」とは言わず,「集団としての一体感」とでも記述します.macskaさんの論旨から考えて,無神論者の中には (A)そうした一体感のようなものを求める人がいる一方で,(B)そこまでの濃いつながりを求めない人もいる;そして,後者 (B) からみれば,前者 (A) は教会などで得ていた一体感を無神論グループにも求めているように見える,ということですね.言い換えれば,両者の対立点は求める交流の濃淡にあるということではないでしょうか.それなら「信仰共同体」と言わなくてもよいと思います.もちろん,macskaさんにとってこれがベストの表現だと考えられるのなら,ぼくがとやかく言うことではないですね.【※コメント欄での macskaさんの書き込みも参照してください】


他方,新しい無神論と「ユートピア思想」については別の機会に詳しく書かれるとのことです.

2008-05-07追記

id:tikani_nemuru_Mさんから,「疑似宗教と堕落した神話」というエントリにてトラックバックをいただきました.macskaさんの記述語の選択について妥当かどうかを議論しておられます.しかしながら,「信仰共同体的なもの」といった記述語の意図する内容については,すでにmacskaさんにご説明をいただき,「無神論も宗教」という含意・意図はないということで落着しております.


追記おわり



▼引用A:はてなブックマークでのぼくのコメント:

ドーキンスら新しい無神論者にみられる非寛容・独善について:しかし,この話を「どっちもどっち」と読むとしたら,それは困りますね/再読.ミスリーディングな文章:非寛容は無神論者の一部/全体? 印象操作あり


追記:macskaさんの説明をうかがって疑いはなくなったので,ブックマークのコメントから「印象操作あり」の箇所を削除しました.


▼引用B:はてなブックマークでの似た趣旨のコメント:

2008年04月25日 saiesaie ドーキンスらの苦闘を簡単にちゃぶ台返し。論旨が疑似科学批判批判にそっくり。(「科学至上主義も一つの宗教じゃん」みたいな相対化。)一見穏当な記述を装いながら無神論者を頑迷な原理主義者と印象づけ。

2008年04月25日 Sinraptor 異なる考えを持つ無心論者を宗教に非寛容というラベルでくくってしまっている。ドーキンステロリズムイスラム教特有の性質によるものと考えてるなんて、著書を読めば違う事はすぐに分かるんだが


▼引用C:macskaさんの発言:「「新しい無神論者」エントリのブクマコメントに一斉お応え」より:

〔ぼく=optical_frogのコメントについて〕ミスリーディングだったと感じたとしたら、それはわたしの文章が下手なせいです、ごめんなさい。わたし自身が無神論者ですし、取り上げている団体の集会に常連として毎月楽しく参加していて(月例集会と読書会に参加しています)、全体を否定したつもりは全然ないんですが。

〔saiesaieさんのコメントについて〕この人の方がよっぽど簡単にわたしの苦闘をちゃぶ台返ししているように見えますが。それに、わたしがやっているのは単なる相対化ではなく、無神論の立場から同じ無神論者の一部に見られる(そしてわたし自身も内面に抱える)不寛容な傾向を批判しているのです。このあたりは、次のエントリでちょっと書きます。最後に、「無神論者を頑迷な原理主義者と」印象づけているように見えたとしたら、前述した通りわたしの文才の無さのせいだとしか言いようがないですが、何か装っているつもりはありません。

〔Sinraptorさんのコメントについて〕イスラム教特有の事情を強く主張しているのはハリスです。しかしドーキンスも『神は妄想である』英語版 p.307 でイスラム研究者を引用してコーラン解釈に踏み込み、「穏健なイスラム教という神話」という表現を使っています。また、イスラム教特有の性質ではないにせよ同 p.302-306 では一部の論者がよく言う「テロリズムの真の原因は、国際的な経済体制や過去の植民地主義、貧困や米国の軍事政策である」という主張を否定し、「宗教が」原因であると言っています。

〔まとめで〕まぁ誤解を与えるような文章を書いたわたしの責任が大きいんだろうけど、読む側ももうちょっと寛容的に読んでくれたら生産的な議論ができると思うんだけどな。だって「お前の意見はここがおかしい」というなら議論になるけど、「印象操作をしている」じゃ議論当事者として失格ってコトになってしまうでしょ。そりゃ世の中には議論相手にならない人だっているけど、いきなりわたしがそうだと決めつけないで欲しいのです。コメント欄にもコメントをお待ちしています。