“No head injury is too trivial to ignore”


Kai von Fintel の Semantics etc. から,先日紹介した "Negated, or not" の関連エントリです:

No head injury is too trivial to ignore


Language Log で,Chris Potts が一見余分な否定辞について記事を書いてる.あってもなくても文の意味が変わらないようにみえる否定辞だ.さらに Mark Liberman が自然に生起したそういう事例をみつけて付け足している:


I challenge anyone to refute that the company is not the most efficient producer in North America.
〔Lit.「この企業が北アメリカでもっとも効率的な生産者ではないと反駁するように私はみんなに呼びかける」〕


 マークはこうたずねている「これは,オマケの not があってもなくても文の効力が論理的に変わらない事例なんだろうか? それとも,ダフィー氏が混乱していただけのことなんだろうか?」

 ぼくは後者の説明の方にかたむいている.ただ,よく知られているように,混乱しないのはむずかしい.ぼくの知っている正しい例にこんなのがある:


No head injury is too trivial to ignore.
〔「どんな頭部の損傷も無視するには瑣末すぎることはない」〕


[ちょっと考えてみてね]


 たしか,Wason & Reich がこの文献で取り上げていたと思う:

  • Wason, P. C., and Reich, S. S., “A Verbal Illusion,” Quarterly Journal of Experimental Psychology 31 (1979): 591-97.


 この文はロンドン病院のカベに見つかったとされていた.じつのところ,グーグルで探してみると,どうやらこの引用元はヒポクラテス(BC460-377)にまでさかのぼるらしい.それはさておき,引用の全文は “No head injury is too severe to despair of, nor too trivial to ignore” となっている.こっちの方がいっそう頭がくらくらする──少なくともぼくのしょぼい脳みそにとってはね.

 たしか,Higginbotham がどこかでこの例を論じていたはずだ.時間があったら探してみる.