森有正の理由文


ときどき,下記の一節を思い出しては,じぶんがどれくらいの解釈をできるようになっているだろうかと考えることがあります:

今日は,「ある人は親切だから,あるいは親切な性質をもっているから,これこれの事をした」というのと,「ある人がこれこれの事をしたから,その人は親切だった」というのとは,全く異る二つの事だということについて考えた.前者に対しては,人はむろん感謝の念をいだき,あるいは感動するが,極めて外面的,一般的である.それに対して,第二の場合は,人はそれに対して感謝し,あるいは感動する,殆ど道徳的義務と言ってよい責任がある.これは極めて平凡の事のようであるが,これを混同するところから多くの悲劇が起こってくるのである.

森有正「日記」(1962年9月8日;原文も日本語),『森有正エッセー集成3』二宮正之=編,ちくま学芸文庫,1999年,p.336)


 簡便のために,問題の理由文を次のように並べてみましょう:

a. あの人は親切だから,これこれの事をした
b. これこれの事をしたから,あの人は親切だ


 さて,イヴ・スウィーツァーの条件文理由文の分類を敷衍して考えますと,前者は内容領域の理由文,後者は認識領域の理由文と言えそうです.すなわち,前者では親切という性質から行為がでてくるという関係がある.ところが後者では,「行為がなされた」という知識から「親切である」という結論が導かれています.言い換えれば,理由文 (a) では行為の理由が示されているのに対して,理由文 (b) では推論の理由が示されています.なお,条件文とちがって,「〜から」節の命題内容は話し手にとって所与の事実とみなされています.

 これを森有正の関心に引き寄せて言いますと,前者では当該人物が親切であることは既知のことで,その性質から行為が導き出されている.そして,その行為は当然のように期待されてもいるわけです.ところが後者では,相手がそのような親切な人物であることはわかっておらず,ただ(たまたま)当該の行為がなされた事後に,ようやく,その行為からその人が親切であるという知識が得られています.その行為は予期されていない偶然事であり,相手がそのような親切なひとであったこと予期されてはいません.そうであればこそ,「それに対して感謝し,あるいは感動する,殆ど道徳的義務と言ってよい責任がある」と森は考えたのでしょう.

 今日のぼくは,おおよそこのような解釈をもちあわせています.また時間が経つとちがってくるのかもしれません.

 ふいに思い出して,なんとなくメモを書いてみました.


森有正エッセー集成〈3〉 (ちくま学芸文庫)

森有正エッセー集成〈3〉 (ちくま学芸文庫)