ジョン・ライオンズ「直示と主体性=主観性:我発語スル,故ニ我アリ?」(7)


しばらくつづきましたが,ライオンズの訳読も今回でおしまいです.

原文:John Lyons, “Deixis and Subjectivity: Loquor, ergo sum?”, in R. J. Jarvella & W. Klein (eds.), Speech, Place, and Action, John Wiley & Sons, 1982.


これまでの訳:(1),(2),(3),(4),(5),(6)


 以下,訳文です.


 この論証の最終段階は,さらなる事実の認識にかかっている.それは,煎じ詰めれば時制は時間指示を成り立たせるその基本機能においてすら主観的なのだ,という事実である(ただし,言語によっては,客観化されて命題内容の一部となることもある).別の場所で私がアウグスティヌスの時制理論と呼んだもの,すなわち「過去・現在・未来はすべて(記憶・観察・予測において)経験的な現在にある」(Lyons, 1977, p. 821)という理論は,この観察にもとづいている.直示の推移とともに話し手は主観的にみずからを他人の意識へと投射できるのだから,彼はまた,想像や記憶の中で自分自身の別の意識状態へとみずからを投射させられもする:i.e. 推移した経験的現在への投射である.このとき,話し手は経験的な描写にふさわしい相を使うのだが,それに加えて,一定の時制を選んで過去や場合によっては未来へと推移がなされたことを示す.こうして,暗黙にせよ明白にせよ,発話には2つの直示的な参照点ができる.経験的な現在を転移させられる──もしくは,ある経験のうちに別の経験を埋め込められる──というこの可能性によって,多くの言語にある持続相の有標な用法がいくつか説明される:〔他の形式より〕もっと生き生きしているという点が記述されてきた用法のことだ.フランス語のいわゆる絵画的な半過去=非完了(imparfait pittoresque) は,この点に関してずいぶんと議論されてきた:一方でフロベールその他の19世紀自然主義派の作家たちがこれを体系的に使い,他方でもっと最近の著述になるとこの半過去がふつうの叙述的な半過去を侵蝕していること──その結果として意味的な有標性を失いつつ──について,いくつか理由が提示されてきた(cf. Weinrich, 1964, pp. 166-167; Reid, 1970, pp. 162-165).


 本稿はこれ以上この問題に立ち入らない.また,直示が主観化されている領域は様相・時制・相以外にもあるが,これも論じない.ただ,はっきりさせておくべき点がひとつ残っている.それは,ここで私がだしている見解よりもっと根源的=急進的な見解を採る可能性のことだ.本稿の冒頭で言及した現象学構造主義者たちには,そちらの方が気に入るかもしれない.


 私が採っている見解では,様相は基本的に主観的であり,言語によって程度は異なりつつも客観化されることがあるものの,しかし直示の基本機能は,ことばで指示されたモノや状況を発話文脈の時間-空間的な原点へと──いま-ここへと──結びつけることにある,とされる.周知のとおり,この原点は自己中心的であり,この点は直示について語るひとの誰もが合意している.しかし,この自己中心性は必ずしも本稿の言う意味において主観的ではない:空間と時間は外在的な世界の客観的な次元として扱われることもあり,その場合,話し手と聞き手は他の手ごろな大きさの物体と同じようにこの次元に位置づけられ,相互に関連づけられる.この観点からすれば,話し手が発話の時と場所を参照点の一部として用いるかどうかは利便性の問題ということになる:原則を言えば,べつに話し手は,まわりの物理環境にあるものなら固定していても可動的でもその時空間的なありかを〔参照点として〕使ってもかまわない.(限度はあるものの,当然ながらいろんな言語でこれは実際に起きる.その場合,指示代名詞の指示には川や山脈,太陽の位置などが組み込まれる.しかし,私の知るかぎり,そうした言語には自己中心的な直示もかならずあるものだ.)


 最後に,時空間的な直示の座標を基本的に客観的なものとして扱うことには,おそらく妥当な理由はひとつもない──ただひとつ,私が言う一階の名詞類を二階・三階の名詞類よりも基本的なものとする方へと私をいざなうのと同じ存在論的な偏見への執心をのぞいては(cf. Lyons, 1977, p. 466; 1979).この偏見はあからさまにアングロサクソン流経験論の残響だと言えばそうかもしれない.徹底的に主観的な直示の理論の方が,これまで私が採り続けてきた説よりも明らかに包括的であろう.私の説は,先ほど述べておいたように,必然的に基本的機能と派生的機能の区別にもとづくものである.