スイッチの切り替え:野尻先生の発言から


デP動画削除の話題からちょっと遠ざかって,どちらかというと「キャラクタ/キャラ」のテーマに近いことを少々.


野尻先生いわく:

〔…〕好意的に解釈すれば、クリプトンは「ミクは清純なキャラだ」と心の底から信じているユーザーの幻想を守ろうとしたのかもしれません。
 しかしSF屋の立場から言えば、そういう幻想を大切に胸に抱きつつも、その他のモードにカチッと切り替えられる態度こそ守られるべきです
 たとえば「初音ミクはどんな命令にも逆らわない」というキャラの立て方で扱えば、いろんな発想が引き出せる。ファーストコンタクトに引っ張り出されたり電波時計をリセットしたり、あらゆる嗜好に対応するためにパンツがコペンハーゲン解釈だったとか。「私は人間じゃないから中出しOK」と歌うデッドボールPのミクもこれに近いものがあります。
 そういうモード切替を自在にこなしたうえで、なおかつ心の片隅に無垢な少女像を暖めておく、というのが真の健全さであり、世間に恥じないイメージを備える道だと思うわけですが。
 ……ま、ずっと日陰者でやってきたSF屋の発想で語っても説得力ないですかね(^^;。


野尻ボード2008年01月26日;強調引用者)

 「猥歌は初音ミクを穢す」なんて意見は、私に言わせれば「考慮に値せず」です。
 初音ミクのイメージを低下させ、キモオタの玩具呼ばわりの元凶となっているのは、ミクファンの多くに支持されている「キャラソン」でしょう。
 たいていのキャラソンは、初音ミクを心と肉体を持つ存在として描写しています。その存在を「金で買い」、部屋に「閉じこめ」、「調教」し、「心を通わせ」、「愛」する。これをキモいと見るのは、別にうがった見方じゃないでしょう。斎藤環氏が述べていますが、架空のキャラを愛する、そのセクシャリティこそが一般人の描くキモオタ像です。
 それに較べれば「私は人間じゃないから」と明言し、ダッチワイフのように扱うデッドボールPの歌は、キャラソンのメンタリティを継承しながらも、かなり一般寄りです。ダッチワイフに射精する行為はエロいけれどもキモくはない。キモいのはダッチワイフとプラトニックな関係を結ぶ態度です。


 私個人はキモオタと呼ばれる側に立つ人間ですからキャラソンは大好きですし、架空のキャラを愛してこそ真の知性だと思ってますけども。
 しかし前述の見地に立って「キャラソンはミクを汚すので禁止すべき」なんて主張をされたら、ミクを「心から愛する」人たちはどう反応するでしょうか。『メルト』や『ハト』はキャラソンじゃない、ミクを楽器扱いしてる、なんて言ってた人たちは?
 そんなおもちゃの刀を振り回すような良識論はやめて、気にくわない他人の創作などスルーすればいいんです。
「君の意見には何ひとつ賛成できないが、君が意見を述べる権利は一命に代えても守り抜く」――これが自由社会における真の良識であって、創作の場にも同じことが言えるはずです。
 確固たる意志と積極性を持ってスルーする。それがネットリテラシーってもんでしょう。


(『さぼり記』「猥歌はなぜ消滅しないのか」コメント欄より;同じく強調引用者)


「ダッチワイフ」といった露悪的な言葉遣いをされていますが,これが意味しているのは「ただの生理的な刺激の道具にすぎないもの」だとじぶんは解釈しています.つまり,

(A) ボーカロイド=音声合成ソフト(「ただの楽器」) : 初音ミク=キャラク

(B) ダッチワイフ=ただの道具 : ダッチワイフ=「愛」の対象


──というような対応関係を考えておられるのでしょう.


「ダッチワイフに射精」云々もキモイといえばじゅうぶんキモイのですが,上記のおはなしの要点は「おまいらなんでそこまでただのキャラを愛せるんだよw」という《一般人》の視線を想像してみれば,猥歌・馬鹿歌を歌わせる道具にする方が,キャラソンで架空のキャラクタを愛せてしまうことよりもよほど《一般》にちかいではないか,という点にあるわけですね.

たとえ心の片隅で架空のキャラクタを愛していようとも,それはそれとして,ボーカロイド=ただの道具という態度でつくられた作品,そういう受け取り方の必要な作品に接するときにはスイッチの切り替えをすればいいじゃないか──そういう趣旨だとじぶんは受け取っています.


たしかに,受け手がそういうスイッチの切り替えをやっていれば,べつにキャラクターの公式イメージが損なわれることなどないでしょうね.

それにしても「ダッチワイフ」だの「ラブドール」だのという単語の頻出するブログですねここは.